完成は、何年、何十年先か予想がつかない。
というより、完成しては困る。
箱根プロジェクトは、体を動かすことによって健康体を維持するための企画でもある。
健康で年を重ねるということが、このさき必ず老いていくにあたっての一番の願いだ。
自分で考えて自分で作る。私の原点だがボケ防止にもなる。
だから私が生きている間は、このプロジェクトに終わりが来てしまっては困る。
とは言っても、終わったらまた別のものをやり始めるだろうが、
あまり急がない、作ることを楽しむ、という位置づけを大事にしたい。
そういう事情は間違いなくあるのだが、
もっと大事な目的は、建築の可能性を追求して私の最終目的の建築にたどり着きたい、ということ。
しかし、永遠に辿り着けないことを知った。
仮に、その最終目的の建築にたどり着けたとしても、その先も私が生きていくとしたら、その建築像は、現れたと思う刹那にまた変貌していくに違いない。
生きていく限り、最終目的の建築は存在しない。
生きるということはそういうことなんだと思った。
死ぬ寸前まで、不完全を生きざるを得ない、または変化していかざるを得ない。
終わっては困る事情と合致してちょうどいいが。
しかし、出来るだけ普遍的なものまで辿り着きたいという願いは変わらない。
そのもう一段深い所。
”ゼロからの出発”
何にもとらわれずに、原点から建築を考え直したかった。
そのためのセルフビルド。
自分が作ることで、頭だけでなく体でも建築を見つめ直したかった。
人間が本当に求めている建築を探すために。
頭だけで作った建築は、その形態の奥に競争原理を内包している。
さらに包みを解けば、不安で波打っている小さなハートが出てくる。
人間は弱い。しかし強く見せようとしている。
頭だけで作ったものは、弱い動物の威嚇姿勢に似ている。
刺激を放つ威嚇建築は作りたくない。
それは、人間が本当に求めている姿とは違う。
体で考えることによって、建築は、人間が求めている本当の姿を現してくれる。
人間は、元々頭と体が一体となっているのが一番安定している。
建築も同じだ。
建築を体で考えることで安定して穏やかになり、同時に人間も人間らしくなる。
その建築は、人に刺激を与えるのではなく、人を幸せに豊かにしてくれるのではないか。
情報過多の中で方向を見失いがちだが、情報を閉ざして自分の中を探るのも、建築の原点にたどり着く1つの確かな道ではないか。
その地点から、改めて未来を見つめてみたい。
”頭で作る”に対比して”体で考える”としたが、
この体が作り出せるものには限界があり、それを超える努力はあるにしてもその積み重ねが層となってしっかりと残り、堆積には隙間が無く、その地盤は安定している。
つまりリアリティがある。
”体で考える”ということは、頭で作ったものを実際に作ることによって体で検証する(考える)ことであり、その結果として、その造形物には安定感が生まれる。(経験を積めば実際に作らずとも体で考えることが出来る。)
頭は刺激を求めるが、
体は、居心地のいい形を求め、合理性を求める。
さらに美を求めたとしても、そこには無駄で無意味な装飾が入り込む隙はない。
それは、日本の美意識である”要の美”に符合する。
”要の美”は、頭と体が融合することによって生まれると言える。
人を幸せにするのは、刺激ではなく”要の美”であろう。