時空を超える創造を求めて。(建築技術に寄稿)

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生きるということは、今を生きることなのだろうか。

現実には今を生きるのだが、生きようとするものは今なのだろうか。

私は、もしこの命が過去に生まれたものであってもよいし、また未来に生まれるものであってもよいと思っている。

私が置かれた時軸が今であることを僥倖に思ったこともないし、逆に不幸に思ったこともない(だからテレビ、車、パソコンの普及も、私の生きることとは本質の部分で関係ない)。

”今”に無関心ということではなく、心の置き場を求めているのである。

その上で今とどう関わるかになるのであり、時代にむやみに流されるのではなく、時代の進路を作るのである。

無関心とは逆に、現代や未来を人の生きる場として尊重する強い意志である。関心は全時空なのである。

今でこそ出来ることには、それほど価値がない。

建築において、その時代の素材を使うことで、それなりの工法、ディテールとなるが、重要なのはそのことではない。

”今”を超えた時空で、建築自体の存在のありようを求められないだろうか。

 

過去に生まれた方が生きやすかったと思うことがあったとしても、今を生きる困難の方が、命を研鑽するには適しているともいえる。

建築も単一下の中での展開の方が作りやすかったし、結果としての街並みも綺麗になり、昔の方が良かったと思えるが、今の多様性の中の方が建築を研鑽するには都合が良いともいえる。

建築も人間も同じである。

建築は今過渡期なのである。まさに建築のカンブリア紀である。

混沌としたその中で今、建築家は人間性をとわれようとしている。

 

否、これは今でこそ希薄なものになっているが、本来建築が持つ普遍的なテーマである。

なぜなら、人の命の形が建築となるのだから・・・・。

私の場合建築は、命の形を探る個的なものだが、個が個で終わらず公となる必要がある。

今という時代とどう向きあるかではなく、自分の命とどう向き合うかが重要なのであり、それが個に偏らず深部で公に繋がるためにも命と正面で対峙することが大切である。

建築は社会的なものであり、個人の都合で作っても地上にその姿を現す以上、社会性を意識しなければならない。公となる必要性がある以上、どんなものでもいい筈はない。

作る個の人間が、自分の命と正面で対峙することが、個に出来ることであろう。

何よりも形而的に、創造とは自分の命と正面で対峙することではないだろうか。

命を深めれば、個でありながら公へと繋がる。それが創造としての芸術が、社会の中で重要な存在となりえる証である。

 

創造のエネルギーには2種類ある。

苦悩や悲哀も、確かにエネルギーになる。それをマイナスのエネルギーとすれば、プラスのエネルギーとは喜びである。
この世に生きていることの喜びのエネルギーで創造したいものだ。

 

さて現実的に、せっかく作るのであれば、住宅であっても100年以上の時間に耐えるものを作りたい。

技術面では解決している。
例えば、木造であれば木を腐らないように作ればよく、それには結露しない家を作ればよい。

技術はあくまでも、目的のための支えである。100年持たせられても、それが目的ではない。

個であっても社会性をもつために、社会的資産としてのストックとなければならない。

2,30年で建替えていたらいつまでも落ち着いた街並が出来ない。社会的資産を増やしていくことは重要である。

また資源の有効利用にもなる。100年が建替えサイクルならば、資源不足にならないだろう。

技術面で一応100年としているが、私は時空を超えたものを作りたいと 思う。

素材、ディテールが変わっても、そこに作ろうとしたものが建築 なのである。

木造の命に長寿命と、もう一つ “力”を与えたいと思っている。

使いやすいとか、縞麗とは違う”力”である。

人間で言えば生きる核である。

“木立の中の家”において、中庭を囲むように丸太を並べたことがある。

それは木立のように不規則に並んで いる。

頂部を斜めにカットして面が中心に集まるようにした。

次に作っ た時は整形の円周上に並べた。

しか し、全円ではなかったが、はっきりと ウッドサークルを意識していた。

今、私の胸の中では、全円の完全なウッドサークルを思い描いている。

かつての文明は、森林を破壊して いった。自然と文明が両立しなかっ たのである。

森林が絶滅さ れた時点で文明も衰退した。

しかし 日本は違っていた。

日本には、木に 神が宿るのであり、森は国を守るものという原始思想がある。

自然と文明が 両立するまれな国であった。

自然を 畏敬し、一体となって生活するのが 日本人の知恵だった。

自然を支配するヨーロッパ文明と大きく違う所であり、それが国を守り人を守る貴重な慈恵だった。木は、素材としての木ではなく、国や人を守る神としての木なのだ。

木造建築をやるためには、木を単なる素材として使うことは出来ない。

木の持つ力が、次第に見えてくる。神という言葉を出さなくとも、木が国を守る事実はある。原始思想の中にそれを核としていた日本の特質を尊重したいと思う。

(建築技術1993年9月)

 

終わり