昨年は、1月も2月も海にきた。今年は、初めて海にきたのは3月になってからだった。とくに理由がある訳ではない。1月も2月も来ようと思えば来れた筈である。こうやって少しずつ、年と共にいろんなことが遠ざかっていくのかもしれない。
一年間、それはあっという間に過ぎるが、その短い期間で人を大きく変えてしまうこともある。人によっては生きる意欲を急に失ってしまうこともあるし、体の変化も急に来ることがある。外見も一見して大きく替えてしまうことがある。だからこの年になるとしばらく会っていない人に会う時に、変化が恐くて少し緊張する。
自分にはというと、自分にもこの一年での変化に気付くものがある。小屋のある箱根からヨットの長浜までは1時間ほどだからそうでもないのだが、東京から箱根までは2時間半の運転で、最近その途中で尻が痛くなるのだ。ヘッ、そんなこと? ではある。去年まではそんなこと無かった。温泉に入って大きな鏡で自分の尻を見てみると臀部の側肉が空気が抜けたボールのように凹んでいることに初めて気が付いた。プックリしていたふくらみがいつの間にか無くなっている。いわば自前のクッションが薄っぺらくなっていたのだ。おまけに軽トラだから座席のクッションも悪い。カーブで横Gがかかる度に、尻の骨が細くなった筋肉束を跨いでゴリッとなる。箱根の山に入ると、ゴリッ、ゴリッ、またゴリッと続く。
そういえば箱根のセルフビルドもこのところ停滞していて筋肉を使うことがあまり無くなってきていた。箱根プロジェクトは、生涯の体力維持のためであることも大きなコンセプトなのだが、いろんなことが下降線を辿っているようだ。
それにもう1つ。朝起きた時に、体の一部に出る元気印が最近は出なくなっていた。この一年でその元気印が無くなっている。そのことに関しては男として気が付かざるをえず、体の変化を如実に感じるものであった。独り身の自分としてはその元気印を使う用途も無く、いつまでも元気なのも困ることだと思っていたからちょうどいいのだが、1つ気がかりなこともあった。それは、生きる意欲との関係である。ひょっとして生きる意欲とそれは直結しているのではないか、ということだ。
しかしそれって人間として情けない。それが無くなったら生きる意欲もなくなった、などとなったらそれのために生きているようなもので、貧しくもこつこつと築き上げてきた人格を全否定されてしまうようではないか。たいした人格でもないが。
人間として生きたい。男である前にである。ずっとそう思ってきたから、それが無くなった時にやっと素の人間に戻れるような気がしていた。もし一緒に生きる意欲もなくなったら元も子もない。
それを確かめるには、年をとってそれが無くなる時が来るまで待たなければならない。その意味で、その時期が来た時、自分がどうなるのか楽しみでもあった。もしそれが無くなった時に生きる意欲も失ったら、その時は思いっきり自分をバカにしてやろうと思っていた。だから近いうちに出るであろう判定に興味津々である。
ホルモンバランスの問題であって人間性の問題ではなかろうと思うのではあるが、なんか悔しい。それに高齢でも意欲的に生きている人は現実に沢山いるから、そんなことにあまり気を使わなくてもいいことであろう。
それにしても、完全にそれが無くなることってあるのだろうか。仮に男性機能が衰えたとしても精神的な性欲などと言うものがあるような気がする。70代の知人の話だが、触れ合っているだけで幸せな気分になると言っていた。実際に彼の表情を見ていると、心の隅っこの方まで寝そべっている細胞は1つもなく、全細胞が芽吹いているようだった。若い愛人がいるらしい。彼は、本妻がいる訳ではないので不倫ではないと言っていた。それは性欲なのだろうか。性欲に似て非なるものなのだろうか。
おそらくそれは、セラピーとかオキシトシンの話になるような気がする。触れ合うことによるオキシトシンの分泌作用が生命や社会の維持に欠かせなかった。進化上、その機能に性欲が乗っかったのかも知れない。性欲の方が先かもしれない、というよりも、そういう主従関係ではなく両者は同じ不安という根から派生して枝分かれしたものであると思われる。性欲の枝が枯れてきて触れ合う欲求だけに戻ることであるように思う。自分が小さい頃のことを思い出してみると、確かに触れ合う欲求と性欲は全く別のものであることが分かるし、同じ機能を共有していることも理解できる。両者とも種の保存に由来しているのだ。そして多分、性欲が消えたとしても触れ合う欲求は消えないのであろう。であれば、生きる意欲も無くならないのかもしれない。しかしそうであるとすると、結局のところ私の場合、”1人は寂しいし心にも良くない” という結論めいた一滴が心に沁み渡り、独り身の自分の行く末は、とどのつまり生きる意欲が砂浜に置かれたクラゲのようになってしまうのかも知れない、となる。これはなんとかしなければならない。それで思うのだが、触れ合うと言っても、音楽と触れ合う、創作と触れ合う、そういうことだってありえる筈だ。それが痩せ我慢だとしても、我慢できるのであればそれでいいし、そんな生き方も捨てたもんじゃないとも思う。脱水クラゲになるよりはるかにましだ。それよりも、男とか女とかを離れて、やっと人間になれるような気がして、そのことの方が嬉しい。あの時の愛も男とか女を離れたものだった。そのように人を愛したいから。
結局は、人との触れ合いがなければ生きていけないのであろうことは分かっているのだが。
生きること自体も悩ましいが、この世は悩ましいものだらけだ。
そんなことを考えていると妙に手の甲のしわが気になった。見えない所でもいろいろなことが変わっている確かな印であるかのようだった。
2月は相棒の誕生月だった。60代最後の誕生日だ。月が変わってしまったが何かお祝いをしたいと思っていた。来年はなんと古稀である。昔は70歳まで生きるのは稀だったのだろう。相棒は「俺たちは古くて稀なり」といって笑った。我々はもうすぐ古くて稀な人種になるのだ。だんだん不快な気分になってくる。
それで思うことにした。私は140歳まで生きると。本当にその年まで生きるつもりはないが、そう思うと70歳は人生の中間点なのだ。やっと人生半ばにさしかかった訳である。さあ、頑張るぞ! という気分になる。
この日は、風が非常に強かった。天候も良くなかった。海に出ることはやめて車で戸田へ行くことにした。
戸田にある食堂に食べてみたい定食があった。相棒の誕生日祝いにその定食を食べようと思った。それは高足蟹が丸ごと付いてくる定食である。前回その店に入った時にそういう定食があるのを知って、高足蟹を食べたことがないのでいつか食べてみたいと思っていたのだ。ただ高価で普段の定食向きではなかったので誕生日祝いに誠にちょうど良かった。
いざ注文しようとした時、相棒は「そんな高額を出してまで食べるほどのもんじゃないよ」と言う。相棒の説明を聞いているとその味が想像できた。相棒はいろんな国でいろんな食事をしていろんなことを良く知っていた。
結局、刺身盛り合わせと鯵のフライで祝った。久し振りに刺身が旨いと感じた。
翌日も、風は少し納まっていたがたいして天気はよくなかった。海に出なくてもいいやと言う気分だったが、出れば出たでやっぱり出てよかったと思うのは分かっていたので、少し気分を変えたいと思い、舫を解いた。
船を泊めるバースのすぐ後ろに生け簀があって、その生け簀や両隣の船にぶつけないように船を出し入れするのはかなりの慣れが必要だった。二人で周囲に気遣いながらやっと出せるといった状況なのだ。それをなんとか克服したくて、最近何回かバースから出るときも入るときも1人でも出来ないものかと練習した。風が強くなければ入るときはなんとか出来た。しかし出るときは難しかった。方法を変えて生け簀をかわすまではバックのままで行けば出られるのではないかと思ってやってみた。そうしたところ、やっとなんとか出来るようになった。
「これで1人でも大丈夫だね」と相棒が言った。
2人で笑ったあと、澄んだ深い水底を見た時のように、その言葉の底に沈む秘めた心境を見た気がして少しひやりとした。単に操船の方法に過ぎない。セールの上げ下ろし、エンジンの掛け方、それらと同じであるはずだが、その底に静かで確かなひやりとしたものを感じたのは、ただの思い過ぎだろうか。
今までと何かが違う。何が違うのだろう。薄い靄のような感覚がまとわりついていた。
今日は車で伊浜まで行こうということになっていたので、帆走を早めに切り上げた。伊浜にも海が見える物件が出ていたのだ。相棒も付合ってくれた。
私はいつも軽トラで来ているから、そこから何処かへ行こうという時はいつも相棒の車で相棒の運転で行った。相棒の運転する時の格好は、右肩を少し前に出した斜の構えだった。座り方が変なので痔でも患っているのかと思ったがそういうことではないらしい。右手だけでハンドルと持ち、左手はたまにオートマのレバーを操作する時ぐらいしか使わない。西伊豆はきついカーブが多いが、それでも右手だけで器用にハンドルを回す。ヘアピンで車線をはみ出しそうになった時でさえも左手を使おうとはせず、かわりに小さく口の中で「エイッ」と言いながらさらに右手をひねるようにして力を込める。
若い時は、前方に車があるのが目障りなようで、見通しがないカーブの時も追い越しを掛けていた。カーブでも滅多にブレーキを踏まず路肩ぎりぎりのインコーナーを責めていた。見通せるS字カーブだと対向車が無ければ直進するのは当たり前だった。
だからと言って扁平タイヤを履くとかシャコタンにするとかいった類の細工をするようなタイプではなかった。オートマだし、ごくごく普通の車体で、時には夏になってもスタッドレスタイヤのままで、そういうことをするのだ。
ある時、探索しながらだからそれほどスピードを出していなかったが、横を他車が追い越しか掛けて過ぎ去った。相棒は、口の中で「普段だったらおめえなんぞブッチ切ってやる」、はっきりは聞こえなかったが確かにそう言ったように私には聞こえたのだ。エッ!と思ったがどんな言葉を挟めばいいのか分からなかった。一瞬、車内の加齢臭がびびって隅っこに小さくなった。
運転に関しては羊の皮を被ったオオカミである。しかし、乱暴なのとは違うのは確かだ。危険なことはしない。要するに運転が上手いようなのだ。その実、運転に余裕がある。ハンドルに全神経を集中している訳でもないようで、彼の後ろに付いて走っている時など、こちらの僅かな変化にも気付く様は、まるでずっとバックミラーを見ているかのようであった。何か用事があって私が左に寄って停車した時のことだ。数台前を走っていた相棒は、その数秒後に左にウインカーを出して止まった。その時だけではなくいつもなのだ。車窓を流れる景色の情報データも逐一脳にインプットされているようで、どこそこを通った時のあれは云々、などという会話には、ボーッと乗っているだけの私には到底ついて行けなかった。来年は古稀になるとは到底思えない。
彼の運転する車に追従したことのある人は皆、その切込みウィルスが感染するようだった。少なくとも連隊で走ることが頻繁にあったヨットの仲間内には間違いなく感染していた。車体に改良を加えることも皆しなかった。その程度の走りであるなら改良など加える必要も無いという理由も一緒に感染していた。
私自身は感染している気がしないが、私の運転は怖いと言う人がいる。
しかし最近は、さすがに無理な追い越しはしなくなっていた。助手席に座っていても不安感は無く運転自体も滑らかだった。相棒は、山道のカーブをスムーズにトレースしながらアップダウンの波の上を滑るように車をころがして行った。
伊浜は、海までの斜面だけの集落だった。一本の車道が海まで降りていて、それ以外は幅が1尋ほどしか無い入組んだ坂道が家々の間に挟まれている。相当な熟練が必要と思われるが、片側が玉石を積んだ擁壁で、片側が落ちているその坂道にも車の往来があるようで、家の敷地の僅かな隙間に軽自動車が岩陰のサザエのように入り込んでいた。
所々にビニールハウスがあり花が栽培されている。伊浜が花の里ともいわれているのは、このビニールハウスのことだろうか。そのハウスもビニールが破れ骨の形も崩れているものがある。
狭い坂道を海まで降りると、昨日の風がまだ残っていて海の色が日本海を思わせるように重かった。西伊豆の中では殺風景な海だった。海自体が持つ厳しさを感じる景色だった。
陽もだいぶ傾き空の青がくすみ始めていた。住人が坂から下りてきて話をすることができた。私の話はすぐに終わってしまうので相棒が話しているのを聞いていた。
伊浜は一頃の賑わいがすっかり消えてしまっていると言う。民宿も閉鎖している。このままでは限界集落になるのが目に見えている。準限界集落には既になっているかもしれない。
一頃の賑わいは幻のようだと言うその住人の顔には、しかし不思議と清らかな笑顔があった。
幾人かの住人に会ったが、その顔には皆同じように遠い昔に忘れ去った笑顔があった。こういう笑顔がこの世にあったという遠い記憶が懐かしく蘇ってきた。私にもそのような笑顔をしていた時期があったような気がしたのだが、しかしそれがこの世のことだった筈であることが、なんだか嘘のように思えた。忘れてしまった大切なものが沢山あるような気がした。
その表情は、かつての賑わいが去ってホッとしている風でもあった。
厳しい自然と向き合っていると、おそらく心の余計な衣装など剥ぎ取られて、質素な美しさを纏うようになるのだろう。昔から感じていたことだが、自然が厳しい所に住む人の笑顔には、ただの温かさとも違う純水のようで何の混じりっけもないものを感じていた。
その笑顔は、私の心の複雑に折り重なったフィルターなど無いかのようにフッと通過して、心の深い所に簡単に入り込んだ。媚びとか慈悲とか哀れみとか、ましては警戒心を隠すものなどとは無縁で、ただ命同士が対面することの喜びのような印象だった。歓迎されているという人間関係の感覚でもなく、そういう思惑などからも無縁の、大自然に咲く花が迎えてくれるような感覚をその笑顔に感じた。結局、温かいと感じるのだが、産まれたばかりの自然の温かい笑顔のようであった。
村人とは、岬に陽が落ちたあともしばらく話していた。
売りに出ている物件が、その家の窓から夕日が見えるようなのだ。かつては民宿を営んでいたようで、家としては大きい。
しかし肝心の夕日は、すぐ横にある岬の影になってしまう立地だった。冬は海に落ちる夕日を見ることが出来そうだったが、夏は残念ながら私の夢は叶わないものだった。購入すべきか否か迷う所だ。
帰りの道中の松崎の食堂で夕食をとった。昨夜の食事が誕生日祝いとしては安上がりだったので、今日の夕食も2日目の祝いとなった。
考えていた。海から見える街が綺麗だと思ったことが無い。どちらかと言うと、家々は景色を殺してしまっていて、無い方がいいと思う街ばかりだ。海洋国家である日本なのに、海の景色を台無しにしているようで悲しかった。
伊浜を見に行ったのは1つの思いがあってのことだった。夕日が見れる所に家が欲しいと思っているのも1つであるが、綺麗な家を作ってカフェでもやりたい。綺麗な家と言ってもイメージとしてはギリシャとかイタリアの海辺の街を想像するだけであるが、とにかく綺麗でなければならず、そして夕日が見れるデッキも作ってカフェ等を作りたいというものだ。接客は誰かにやってもらって。
SNS等で口コミで広まって若い人やカップルがやってくる。人が戻ってくる。すると観光客相手に店を再開する人がいるかも知れない。昔はダイビングショップもあったようだ。それが蘇るかも知れない、などと夢想する。
その時が大事だ、と夢想が続く。それぞれが勝手に今までと同じような家を建てては元の木阿弥になる。綺麗な街を作らねばならない。画一というのとも違う。デザインはバラバラでもいい。ただそれが全体になった時に一体とした街になるようなデザインがいい。サントリーニ島の街も、一軒一軒を良く見るとデザインはバラバラであるが、全体としてはとても綺麗だ。あんな街が出来たらいいなと思う。
そのもう1つは、そんな街を海から眺めてみたいと思うのだ。私が生きているうちに見ることはないだろうが、そのきっかけとなる一軒目を作ってみたいと思っている。
またにぎやかにしてしまうのは申し訳ないが、もしそうなったとしても、今と同じ笑顔があったら素敵なことだ。
4月は私の誕生月なので相棒が祝ってくれた。誕生日ごっこだ。レースをやる訳でもなく、船同士の交流もなく、私にとってはその方が楽なのでいいのだが、それでも少しはヨットライフに彩りが欲しかったから、誕生日ごっこは楽しいものだった。男2人だけでというのがちょっと怪しいが、それに目をつぶれば純粋に楽しい。
戸田まで物件を見に行った。帰りに温泉に寄り、長岡のスーパーで買物をして船で料理した。
鍋とステーキを用意した。相棒がカセットコンロをコクピットに出して鍋を調理している間、私はテーブルを用意した。
久しぶりに酒も飲んだ。食べ始めると鍋だけで満腹になってしまった。
ステーキがあまり、前回と同様に2日続けての祝いとなった。
2人とも、食べる量が少なくなっていた。
5月連休。相棒のお嬢さんも来てくれた。今年は遠出するでもなく船でまったりしていた。清水まで行こうとして出航したのだが、風が思わしくなく大瀬崎までも行かずに引き返したのだった。しかし若いCちゃんにとっては全く退屈だ。翌日になって先に帰ると言いだした。我らも居てもしょうがない気分になりつられて帰ることにした。眠れなかったからだろうか。体の芯が疲れていたこともあった。特に相棒の疲れが深いようだった。
相棒は、昨年の夏のクルージングでの暑さが相当こたえたと見えて、今年のクルージングの計画を迷っているようであった。
いろんなことが重なって薄い靄になっている。
船に残っている食料の整理をした。賞味期限切れのが沢山あった。Cちゃんは捨てると言う。我らとしてはとんでもなかったが、仕方なしに古いものは私が引取って箱根で食べることにした。
Cちゃんは、式根に行きたいと言っていた。私も行きたいと思っていたからその提案は嬉しかった。急に式根の懐かしいきれいな景色が目に浮かんだ。
夏の楽しみが出来た。
急に靄が晴れる思いだった。そうだ、これが足りなかったのだ。
伊浜の物件は残念ながら落とせなかった。3本の応札があった。最低値でしか入札しない私は、当然だめだった。
しかし、伊浜を綺麗な街にしたい思いは、あの笑顔のためにも持ち続けようと思う。