うだるような暑さの中で雲はのんびりと浮かんでいられないと見えてひとかけらも無く、仕方なしに青空が開けっぴろげになっている。
水平方向は、遠景ほどに蒸した空気の向こうになって色彩が薄くなるが、上空は層が薄い。そこにある太陽は、その直射光を水蒸気で緩和させること無く、肌が出ている部分を焼けたコテでも当てるかのような痛みを伴って攻撃してくる。
台風は、まだはるか沖にあるものの、南海の水蒸気をたっぷり含んだ暑い空気を連日に渡って運んできて、山の緑も海の青も周りの全ての色を霞ませている。海も陸もゆで上がり、取巻く空気は水蒸気の飽和点を押し上げているようだ。
ヨットの舵を操作するコクピットは、遮光するものが何も無く太陽光の直射のただ中にある。私とIさんは、帽子を被り、首の後ろを保護しなければいけないので布で隠し、それでも頬が出るのでそれも隠すと目だけが出た格好となる。長袖長ズボンは当然で、手の甲も隠すために手袋も欠かせない。Iさんは、袖が延長して先端を指に引っ掛けるようにして手の甲を覆うことが出来るシャツを着ていた。「いいだろ、これ女物なんだ」と笑った。それでも足の甲が出ている。Iさんは買物時にもらってきた段ボールの箱に足を突っ込んでいる。少しでも肌を露出している部分があるとそこは直射光の標的になった。それは、肌にシミになることを気遣うようなものではなく、生命の危機に対する防御本能だった。しかし実際の会話では、「年をとるとシミになって消えないからなあ」というもので、Iさんは「ほら」と言いながらすでに出来てしまっている頬あたりのシミを、指でタオルを寄せて示した。2人とも還暦をとっくに過ぎていていい年になっていた。
ヨットは、遠目では優雅な乗り物だがファッションセンスを競う世界とはほど遠い。自分らのファッションはどう見てもひいき目に見ることすら出来ず、河川敷にあるブルーシート小屋ほどのセンスの無さだ。鉱山の労働着スタイルのほうがはるかに格好がいい。2人は加齢臭だって放っているかも知れない。気が付かないものを浮き上がらせてくれる言葉は凄いと思うが、そのおかげで加齢臭などという気付かなかったものが浮き上がって来て、当該者としては周りに迷惑をかけているような気分になり、風呂に入る回数を増やさなければならないかと思ってしまい、はなはだ迷惑な感じだ。だいたいそんな臭いは本当にあるのだろうか。潔癖性の抗菌症候群で免疫不全になってしまうのはご免なので風呂は面倒だしなるべく入りたくない。
船は、乗員が色気のない男2人でも、若々しく満帆でいい走りをしている。
パソコンのチャートはGPSで艇位を確認することが出来、艇速も分かる。紙のチャートしかなかった時代を思うと隔世の感がある。それをみると6ノット位は出ている。この調子なら以外と早く三宅島に着くと思われた。
今朝、早めに起きて大島の波浮港を出航したのは8時半頃だった。寝坊助同士だからその時間で出航できたのはかなり驚異的なことだ。三宅島の阿古港までは43マイルほどある。巡航で6ノットならば7時間ほどの航海だ。
昨日の段階では風がどの位吹くか分からないし、途中で何があるか分からないし、明るいうちに入港したいし、早く出るに越したことは無いという意見で一致して、お互い早く起きるようにした。
しかし東京での仕事の毎日と違って、こういう状況の時はそれほど無理しなくても自然のサイクルになじんでくる。暗くなればそれほど遅くまでは起きていないようになるし、朝は明るくなれば自然に体が起きるようになる。ホームポートの沼津を出て4日目だから体もなじみ始めているようだ。
この朝は、あまり眠れた気がしなかったが不思議と寝不足感はなかった。簡単にシリアルで朝食を済ませ、コーヒーを飲み、エンジンをかけ舫を解いて出航した。港の灯台をかわしてしばらく沖に出してからセールを上げはじめた。舳先を風にたててメインセールを上げるためにハリヤードを引くとセールは少しずつ青空の中をはためきながら広がっていく。マストのトップまでセールを上げてハリヤードを固定し、舳先を目的方向に向けると、それまで旗のようにバタバタとはためいていたセールは徐々に静かになり綺麗なカーブを描いて風を受け始める。シートをたぐり寄せてブームを寄せ、セールを風にあわせる。続いて前方のセールも広げた。
風は強くもなく弱くもなくいい感じだ。風速6メートルほどだろうか。セールは一番広くした状態にした。足元の余分なシートを整理してセーリングの態勢が整うとエンジンを切った。ディーゼルエンジンは、乗用車のような厳重な防音防振対策をしていないため音も振動も凄い。その逞しいが遠慮の無い頑張り音が消えると、それまでかき消されていた自然の音が浮かび上がる。セールが風を切る音と舳先が波を切る音だけの世界が訪れる。そして静かだ。喋ってはいけない気分になる。風を受けて斜めに傾いた船体は、広大な海を前にして気分上々のようだ。
その時の我々の気分も、この瞬間のためにヨットに乗っているのかも知れないと思うほどで、体が軽くなったような開放感が訪れ、体から何かが抜けて行くような感覚のあと、そこには知らぬうちにしがらみに圧迫されていた重いものがあったことを知り、そのぼっかりと空白になった部分に、代わりに海風や光が心地よく入り込んできた。
その瞬間のためだけだったら遠出する必要も無いのだが、エンジンを切って帆走に移る度にそう思う。いくら早くてもモーターボートに乗る気になれないのはそのためだ。ジェットスキーなどはその存在理由が全く分からなかった。静かな入り江で休んでいる時に、けたたましい音とともに海面を切り裂いて行くのは迷惑以外のなにものでもない。何処かへ行くのかと思えば狭いエリアをぐるっと回って戻ってくる。何がしたいのだ、とつい思ってしまう。
ヨットは太平洋を渡ることも出来る。地球を一周する人も今では珍しくない。それも化石燃料を使わずにだ。ヨットに始めに興味を持ったのはその点でもあった。貧乏だったことも影響していたかもしれないが、風さえあれば何処へでも行けることにロマンを感じた。その時、風が吹いてくる方向へも進むことが出来ることなど魔法のように感じたものだ。
ヨットは、風に対して45度まで登れる。風上側へ舳先を回すのを“のぼる”といい、反対に風下側に舳先を回すのを“落す”と言う。風が吹いてくる方向に目的地がある場合は、ジグザグに進むことになる。このことも大いに気に入った原因だった。まだ社会に出る前だったが、効率だけで動くものではないものがあることは、その後の自分に示唆するものがあった。
風に対して45度目一杯にのぼるクローズの状態の時が一番ハードな乗り方で、船の傾きも一番大きく、斜め前方から来る風と波を切込んで行くことになる。風が強ければ舳先に上がる飛沫がコクピットまで飛んできて、我々を頭からずぶ濡れにする。ジグザグに進むから目的方向の距離がなかなか稼げず、そのうえかなりハードだが、それでも確実に目的地に近づいている。なんだかそんな生き方がいいなあと自分の人生を重ねてみていた。おそらく、自分の人生も目的の方向へ簡単に行けるはずも無いことを感じていて、それでもいい、その方がきっと楽しい人生になるに違いない、という思いがあった。
60度ほどに風に対して舳先を落とすとハードさは目に見えて無くなってきて格段に操船が楽になる。ちなみに、風を背に受けて帆走する時の海は、風と同じ方向に進むから受ける風速も落ちて、クローズで帆走する時の海とは同じと思えないほど穏やかな様相になる。その違いは、目を吊り上げて怒っていた親が来訪者に振り向いた瞬間に別人のように愛想がよくなるのと同じくらいだと思った。本当にその位違う。その親ももう居ないが、脳裏に残るつまらない事に自嘲した。
今は、舳先を三宅島の方に向けると風との角度は60度ほどだったので楽な状態で帆走している。まさに順風満帆の航海で、直射光防衛にも慣れが出始めてヨットの上には快適な時が流れていた。
つづく
ヨットは、風を受けて斜めに傾いている状態が普通で、波の揺れも加わってまことに体のバランスを取り辛い。しかし水分の補給は欠かせないのでその状態の中でも船内に出入りしなければならない。。
セールをセットすると、帆走中はたいして体を動かすことも無いが、それでも汗が出てシャツを濡らす。意識して水分補給をするが、いくら飲んでも全部汗になるようで小便を出したくなることも無く、こういう状態で小用を足すのもかなりの困難を伴うので小便が出ないことには助かる。
陸上では汗で濡れたシャツは気分のいいものではないが、今は何とも気持がいい。気化熱で体を冷やしてくれているのだ。傍目では干し上がってしまいそうに見えるだろうが、実は以外と気持よくこれならいくらでも炎天下を耐え続けられるという別境地の気分にさせてくれる。慣れてくるとこの暑さとも折り合いがついて来て、日常ではあり得ない特別の情緒を感じるようになり違った景色が現れる。砂漠の潔癖なまでに砂以外に何も無いということがすごく美しい、というのを友人が話していたことがあるが分かるような気がした。その状景は、砂漠と青空と太陽だと思われるが、この海と青空と太陽のシンプルで清い力強さが美しかった。霞んでいるのは半分夢を見ているからかも知れないと、浮遊感が少し入ったような気分の中で、これが永遠に続くことがあったとしても、それでもいいと刹那的な思いに浸った。
船内は影になるからコクピットよりも快適そうだが、ハッチを開けてあっても望むような風通しは無く、そのため気化作用がないから気温そのものを感じる。皮膚呼吸が出来ないような息苦しさが迫って来て、数分で体の内部から限界信号が出る。しかし体が疲れ切っている時はそこで寝てしまうこともあるが、起きた時はぐっしょりと汗まみれになっている。それでも体と心の効果的なリフレッシュにはなった。過酷な条件下でも耐えることが出来る人体の仕組みに感心する。
温泉情緒を超えて釜茹でにされているようなものだが、この水蒸気が満ちた景色も陸上では味わえない情緒を感じるようになり、精神的にも順応してきた。少し過酷な状況だからだろうか、いつもは美しい景色を見ても哀しみに落ちていたが、いまはかろうじて美しいと感じていられる。
船の進行方向に利島や新島が見えるもののその先の三宅島の姿は全く見えない。水平線の少し上に島雲が浮かんでいるから、あの下に三宅島があるのだろうと推測できるだけだった。
島雲:http://farm5.static.flickr.com/4008/4543899858_b82e95868f_o.jpg
風は、遠方の台風のおかげでセーリングにはちょうどいい。
この船は、10mのマストを一本持ち、マストの前と後ろにセールを1枚ずつ張れるスループと言われるものだ。マストに付いている後ろのセールをメインセール、前方のセールをジブと言い、セールを風に合わせて角度を変えるためのロープをシートと言う。2枚のセールとも風の強さに合わせて面積を縮めることが可能で、風が強い時はセールを小さくすることが出来るようになっている。また、船体の下にはバラストという錘が付いていて船の復元力になっている。バラストは板状で船の横流れを抑える重要な役目もある。もしこれがなければ船は風が吹く方向へただ流されるだけで、ヨットが風に向かって進めるのはこのバラストのおかげだ。ヨットの安全性は高く、風速10mほど吹いて海原が白波だらけの時もそれほど不安感も無く快適なセーリングを楽しむことが出来る。
この船は3代目でよく出来た船だ。日本の造船所が作ったものだが、私はこの船に出会ってからセーリングが面白くなって来た。
20代からヨットに乗っていたからもう40年以上も経つが、海は好きなのだが実はクルーザーでのセーリングが面白いと思ったことはあまりなかった。
1代目のヨットは自作だった。共に作った若い仲間達は、船が完成したら太平洋を渡ろうという夢を秘かに共有していた。しかし誰かがそのことを話し始めても、話が盛り上がることは無かった。皆そのことには不安を感じていたのだ。太平洋横断など不安に満ちている。希望はあっても実行する決意は誠に脆弱だった。それでも、実現せずに終わるかも知れないが普通では持ち得ないその夢は、青年期の少しの誇りになっていた。
仕事もまだまだ頑張らなければならない時期で、休みの日にしか集まれなかったが、集まれば野球などして懐かしい時期だ。そのためか完成には3年もかかって太平洋を渡る機を失くした。それでも、その夢のために作った船は荒海にも耐えられるように頑丈にした。しかしそのために重くなってしまったのだ。おかげで微風では全く走らず、降りてスターンを押したくなる。結局それほど頑丈にしなくても良かったわけなのだが、船の重さはあの頃の夢の重さだったのかも知れない。
それでも、その船で仲間達と沖縄まで行ってきたことは生涯のいい想い出になっている。
しかし残念ながらその船では、風を楽しむという境地に至ることはなかった。
その後、仲間も結婚して家族が増えて来たので大きいヨットを購入したが、子供達と楽しむためのヨットとなって冒険は全く出来なかった。ヨットでありながらセールを上げたこともあまりなかった。水遊びのポイントまで行くための渡し船的なものになっていた。
その後、仲間も様々な事情がありヨットを手放すことになった。ヨットだけは一生続けたいと思っていたが、1人では維持も管理も無理だった。
つづく
船がないのは寂しいので他の船に参画しようかと考えてみても、家と同じで今さら他人の家に居候になる気にもなれないまま数年が過ぎた時は、もう還暦をとっくに過ぎて生命の残りの時間が見え始めていた。このまま人生が収束していくのはやはり寂しいが、他にやることも一杯あるし仕方ないかと諦観気味だった。しかしいつも、陸とは全然違うあの夏の景色は脳裏に浮かんでいた。
久し振りに仲間が集まった時に、もう一度船を持たないかと話を持ち出しても、それぞれに事情がありこれ以上話してはいけない気がしたが、今の相棒のIさんだけはちょっと反応が違った。それだけでも嬉しかったが、操船自体は2人で充分であっても維持管理や日程のことを考えると少なくとも3人が望ましいので、2人でも厳しいと思った。
1人でヨットに乗る人も結構いる。同じハーバーにもいつも1人で出て行く人がいて、艤装も1人で操船できるようになっているのだろうが、自分にはその心理が分からなかった。決められたルートを登る山とも違う。海原に出ればいきなり孤独の世界が宇宙空間のように広がっている。自分にとってはそれは恐怖だった。拡散して何も無い世界の中では、逆に自分という存在が際限なく一点に凝縮して、自分は深いところで孤独だと感じている秘かな種のような部分が、周りの果肉が凝縮するに従い醜くその形を露呈してしまう気がして、これ以上望んで孤独になる気はなかった。あの人はきっと陸では孤独ではないのだと思った。あの人はいつも青いジャガーで乗り付けているし、きっと家も豪邸なのだろうと思った。ヨットも青く、ダブルエンダーに近いクラシックで優美な船だ。自分はと言えば、工具を満載した中古の軽トラだった。家も風が吹けば揺れる手作りの小屋だ。
Iさんの積極的な前進力があり、自分の懸念は開けたドア板に隠れてしまったかのように、船を持つ計画がスタートした。
結局2人で中古だが船を持つことになった。
期間を5年として、5年分の維持費と船の購入費をまとめて先に出し合い、仮にお互いに何かあっても残額を請求しないという取り決めをIさんが提案した。“何かあっても“というのは、どちらかに何かあっても残ったどちらかがヨットを続けられるようにということだった。自分の方に何かがあるかもしれないし、残っても船を続けられるとは思えなかったが、そういうIさんの配慮は嬉しかった。2人でもやっていけると思うことが出来た。
だが、5年という期間は何だろう。5年後にどんな状況をIさんは見ているのだろう、と思ったが、もうそんな年になってしまっていることが悲しくて聞かなかった。出資金はあまり使わないようにして、少しでも長く乗れるようにしようと思った。
そういう配慮をいろいろな場面で見せてくれるIさんに好感を持っていることも確かだが、そういう配慮を人もするものだとIさんは思っている節もあり、自分にも暗に求められている気もしないでもなく、彼といるときは緊張していた。とは言ってもいつもは忘れていて、そのことに気がついた時に少しだけ緊張する程度だった。
Iさんは、まだ現役で仕事をこなしており高い評価も得ていて忙しい人だった。しかしこのままではこのままで人生が終わってしまう、「人生を変えたい」といつも言っていた。働くことで自己実現が出来ていて家庭を持ち子も成人している。しかしこれでいいのだろうかという思いが重低音のようにあったようだ。それが贅沢だとは思えなかった。心の深いところのどうしようもないものだから。
極端な言い方をすれば、憲法で定められている勤労の義務と納税の義務を果たしているに過ぎない。自己実現が出来ているといっても、よく考えてみると社会に飼いならされているだけのような気もしてくる。本当にそれで生きていることになるのだろうか。
身の回りの全てのものは、多くの人の働きがあって今ここにある。それが社会となっている。自分も、自分の出来ることで社会に参加することが、つまりは生きることになる。そして、それは義務でもあリ、またそうしなければ生活することも出来ない仕組みになっている。悩む前に、その仕組みに参画しなければならない。
人間とは何だ、自分は何だ、生きるって何だ、という青年期の猛烈な自己や社会との対峙は、はかなく朝霧のように消えて、答えの出ぬまま、人は取りあえず仕組みの中に取込まれて行く。その中で自己実現が出来たからと言って、うまく社会に飼いならされているだけではないか。見失っているものがあるような気がしてならなかった。
しかしそう思うのは実は自分のことで、Iさんの場合は、精神的に自由な人だから単にもっと遊びたいだけなのかもしれない。仕事に追われている毎日が、もういいだろうという気分にさせているのだろう。夏休みを2ヶ月間ほど取れるようになれば上出来なのかもしれない。
このまま人生を終わらせてたまるかという思いは自分も同じだったのでIさんの気持に共感したが、自分の場合は暗かった。生きるということは何だろうかと、小さい頃からずっと考えて来た。と言っても大人になってからそう思うだけで、自分が実際に小さい時から考えていたとはとても思えず、考えていた気がするにすぎない。Iさんに暗いと言われても、大事なことだと思うので気にならなかった。逆に、明るいのは軽いと思っていた。風で飛ばされたくなかった。大地に根を張らせたかった。
ただ、小さい頃の毎日は悲しかった。毎日必ず一度は泣いていた。そんな子供が青年になって海に浮かぶヨットを見たとき、美しいと思った。ヨットはひとりぼっちだった。その悲しみを昇華した美しさに思えた。道のない何処までも続く海の上を、風と青空を友にして帆走している。その光景は涙が出るほどの思いを込み上がらせた。
大学に入りヨット部に入った。ヨットと言っても2人で乗るディンギーというものだった。
しかし入ったヨット部は体育会系で、その頃の体育会と言えば3年生は神様、2年生は人間、1年生は奴隷、という制御機能のない稚拙な権力階級の集団だった。自分には合わなかった。
神様の1人に猿のような人がいて、目が合うと見る間に般若のような形相に変わって牙も剥き出したのではないかと思わせた。その先輩は高校時代に生徒会長をしていたということである。いろんな人間が居るものだという感慨が深まった時期だ。目立ったことをする訳でもなかったが、自分が上級生の”的”になりやすい存在であることをその時に知った。しかし、同学年の仲間達からは慕われていた気がするし、一部の上級生からは注目されていた気もするが、気がするだけだ。
夏休みには強制的なアルバイトがあり、バイト代は船の整備費のために部に納めなければならなかった。学費は自分で稼ぐ約束じゃなかったのかと、裕福ではない親に寂しげに詰められたこともあり、2年になった時点で退部した。
あの頃の情景はいつでも目に浮かぶ。砂浜にあげられたディンギーは、マストを夕風の中で休ませていた。日も傾いた海原に昼間の部活の様子が浮かび上がる。ヨットだけは何からも属されずに美しかった。
その後の自分は、生きるということとヨットで海原を航海することを重ねて考えるようになっていた。
つづく
そして、いま乗っている船は3代目になる。このヨットはとても性能がいい。風に乗ることが出来る。とてもセーリングが楽しいのだ。
それはヨットの性能によることは確かなのだが、それだけではなかった。係留権付で買ったこの船のホームポートの海域は、富士山を北に望み3方が陸に囲まれている。冬の西風以外の時は、陸がブランケットになっているため風波が成長することもなく、うねりもあまり入って来なかった。プールのようなと言っては極端だが、いつも平水状態であることが多く、セーリングボートはまことに滑走しやすかった。今迄経験したことの無い疾走感が味わえた。陸に上がってからその時を振り返ると、あれは本当に風に乗っていたのではないかと思うことがある。海面を切る振動や音も、魔法の絨毯に乗ったことはないが、本当に風に乗っているかのような感覚で蘇った。1代目の自作の船ではこの疾走感を味わえたことは無かった。
それに加えて、Iさんの存在に寄ることも大きかった。Iさんと一緒に毎週のように海にやってきてはいろいろな風と遊ぶことが出来た。そして風が体に馴染み始めてきたのだ。長年ヨットに乗ってきたが、その感覚は初めてだった。Iさんとともに船を操りながら次第に風に乗る感覚が馴染んできたのだ。
疾走感と言っても6、7ノットの話である。11km/h ほどである。モーターボートの連中から見たら「何がしたいのだ」となって矢が戻ってくるかもしれない。
ヨットでもレース艇のカタマラン(双胴船)となると20ノット以上出るらしいが、この船は、船内に一通り生活できる設備があって寝泊まりできて航海を楽しむいわゆるブルーウォーター派であり、安全性と快適性が重視されて作られたものだった。
パソコンのチャートのソフトが調子悪いということがあるのだろうか。
チャートは、GPSで船の位置が分かり、数秒ごとの位置の移動2点間のデータで船が進んでいる方向と艇速が表示されるようになっている。
舳先は三宅島上空の島雲を正面に捉えているのだが、GPSが表示する進行方位は左にずれているのだ。あの雲は島雲ではないのだろうか。しかし昨日も同じ現象があった。下田から大島の波浮港へ向かうときのことだった。波浮港のある島影の右端に舳先を向けているのだが、GPSが示す進行方向は島の中央あたりなのだ。角度にして10度以上も違う。GPSに不具合が出たのだろうかと思っては見たものの、これに関しては自分では直そうにも直す個所がない。自動車等の整備は自分でも出来、簡単な家ぐらいなら作れるが、目に見えないものはどうなっているのか分からない。GPSアンテナのUSBを抜き差ししてみたり、パソコンを再起動してみるぐらいのことしか出来ないが、そんなことではまったく変化はなかった。
このチャートソフトは、最近取入れたもので、操作も全部覚えているわけではなくまだ不慣れだったことは確かだった。
昼間だから、利島も見えるし新島も見える。三宅島の方向を間違えることはなかったので、特にGPSに頼らなくてもよく、不具合は宿題としてそのことにはあまり気にせずにいた。
出航したら、船の上は完全なる自己責任の世界になる。もし不具合があってそれが原因で事故になった時に、あいつのせいだと誰かに責任を追及しても、現状の危機を回避するためには何の役にもならない。手をこまねいていれば自分の命が危ない。
陸の上では、内部機構を全く理解していない人でも自動車を運転することが出来る。不具合が出たら電話一本で助けに来てくれるからだ。しかし海の上では、基本的に助けてくれる人はいない。不具合は自分で直し、危機には自分で対処するという大原則があった。
そんな海の理は好きだった。自然に陸の上でもそう生きたいと思うようになっていた。
つづく
そう考える自分の師と思っている人が三宅島にいる。もう何年も連絡を取っていないが、今回会えるだろうがという期待もあった。
その人は棟梁である。島内に昔から伝わっている伝統構法を継承している中心人物の2代目だった。島内にそのような文化が独立して存在していることに興味を深くし、その腕を持つ宮下さんにも関心があった。彼も私に興味を持ってくれたのか、その当時は何かに付けて連絡し合っていた。
宮下さんは、大工を本業にしながら自分で漁をするための小舟を作っていた。家を作れるなら小舟ぐらい作れるだろうと思うが、家と船とでは技術が全く違う。自邸はもちろんのこと生活するために必要となるあらゆるものを自分で作っていた。野菜などももちろんである。買うのは米ぐらいだと言っていた。物資が少ない島で生きるにはその方が自然であると思うが、だからと言ってそう出来る人はあまりいないだろう。私の思う強い命の具体的な姿を見せてくれた。そういう生き方が、無理もなくとても自然で力強く、人間の本来の姿のように思えた。宮下さんは「子供も自分で作った」というジョークを言って私を笑わせた。
いつも自分は弱い人間だと思っていたから強い命が欲しかった。彼のように、誰に頼らずとも生きて行ける力が自分にも欲しいと思った。何があっても自分の責に帰し、自分で対処して道を開く。そして、自分だけではどうしようもないことも必ずあるだろう。そういう時にこそ誰かの力を借りる。その方が、その誰かともより良い関係を構築できるのではないかと思えた。
それを言葉にすれば自己責任とか自立というものになるだろう。その言葉は、あのときのヨットの美しさを悲しみの昇華であるだけでなく、それに力強さを付加してくれた。どんな風にも揺るがずに虚空に屹立するマストは、力強さの象徴そのものだった。
自己責任という言葉が、背筋を伸ばしてくれる禅の警策のような刺激と響きを持って心の中に目が覚めるように開花した時があった。その後、海の上だけでなく、陸の上でもその言葉はいつも私の心に響き始めた。強く生きるための根が、心の深くに育ち始めた気がした。
沼津を出てからIさんはうまく眠れていないようだ。外見では変化はないものの、体の芯の気力が日を追って瑞々しさを失ってきているようにうかがえた。睡眠を充分に取ることが出来ればそれで解決することであり、Iさん自身も表面に出すまいとしているのが分かるので、そのことを話すことはなかったが、彼の負担を軽くしたいと思い、水分の補給や食事の用意も小まめにやるように心がけた。
私も眠れないというのは実に辛いものであることを実感しているから、そういう人を見るとそっとしておいてあげたい。
私の場合は、元々が脳の言語野も未熟なうえに言葉が思うように出なくなってしまい、病気で言葉を失ってしまう気持がわかる。そして姿勢を維持しているだけでも辛く、かと言って横になっても眠れない時などは自分の身をどうしていいか分からなくなる。寝不足になると精神的にも不安定になり散々な状態なのだ。そんな時は、眠れなくてもいいので横になって何もしないでいるのが気分的に一番楽で、そのまま時間をやり過ごすことがよくある。反面、逆の不思議な部分もあった。状況が過酷になればなるほど体調が良くなり快眠できる傾向がある。何度もそういう経験をした。普段でもそれが継続できればいいのだが、残念なことに平穏な時はだらだらして不眠症傾向にあった。過酷な状況は、唯一哀しみを消してくれるからかもしれない。
船の上は平常よりは過酷なので、私は少しずつ体調が良くなりつつあったようだ。このまま続けば、漁港で80才を過ぎても視線が強く体も頑強な漁師を良く見かけるが、そのようになれる気がした。
Iさんは少量の睡眠導入剤を服用しても眠れなかったようだ。
年をとると睡眠力が低下する。若い時は眠るのが上手で何時間でも寝ていられたが、年をとると必要以上に寝ていると苦しくなって起きざるを得ない。それでも眠れればいいが、ベッドに入っても寝付けないような睡眠力の低下が進むと、睡眠薬を服用する人も居れば自分なりに工夫する人もいる。
薬はなるべく服用したくないので、私もいろいろ試した。まずはタマネギに精神の鎮静作用があるのでそれをスライスして食した。しかしこれは辛くて続かなかった。湯通しすれば良さそうだが、それは面倒だった。タマネギを漬け込んだワインが良さそうだと聞きやってみたが旨くないので続かなかった。いろいろやって辿り着いたのがオニオンパウダーだ。それを使ったレシピは、人に言うのは恥ずかしいのだが赤ん坊用のミルクを使う。人肌に温めた湯にオニオンパウダーと粉ミルクと蜂蜜を入れたものを就寝前に気楽な音楽でも聞きながらゆっくり飲むのだ。最近バージョンアップして、そこにジンジャーパウダーを入れるようになった。自分ではこれで完璧だった。
赤ん坊用の粉ミルクを入れる理由は、その成分にラクトフェリンが入っているからである。それは、母乳に沢山含まれている物質で免疫力を高める作用がある。赤ん坊が病気しないのはその作用による。牛乳を入れるならそのミルクにした方が体には良さそうに思えたのだ。その他の成分は知らないが重要な栄養素はあるに違いないので、毎日の食事が雑だからそれで補おうという気持もあった。ミルクの空き缶がいつもあり、人に聞かれると説明に籠った。
先日テレビを見ていたら、ラクトフェリンがノロウィルスの感染予防に大変効果があることを報じていた。私の台所のシンクは隅々が黒い。特に排水口も周りはすごい。顕微鏡で見たら恐ろしいことになっているのだろう。これはノロウィルスではないだろうが、いろんな意味で私の生活にはラクトフェリンは欠かせないものとなっている。
そして寝る寸前にカルシウム剤を飲む。カルシウム剤については、人生には辛い時があるがそんな時はカルシウム剤を飲むといいと教えてくれた人がいて、飲むと本当に気持が楽になる気がした。とくに辛くなくても飲むと睡眠が深くなるので、それ以来もう何十年も寝る前に服用するようになった。薬ではないから副作用の心配がないのが良かったし、日本人はカルシウムの摂取量が少ないと聞くのでちょうどいいと思った。
ただ、タマネギに精神の鎮静作用があるのはいい。そして血液をサラサラにしてもくれる作用もあってそれもいい。ただだ、それに加えて男性機能も高めてくれるのには1人身の自分にとっては困ったことであった。このためだけにパートナーを求めるのも失礼な話だし、心の深いところでは、性は哀しみに繋がっていた。でもそれも加齢とともにあまり困らなくなってきた。
乗員は、睡眠力の低下した男2人で英気も上がらないが、船はセールを左舷に張った状態(スターボードタック)で順調な走りをしている。風の変化もなさそうだ。波浮港を出てからまだ1時間も経っていないので、三宅に着く迄の6時間ほどはこの状態のままである筈だ。
コクピットに揺られながら、自然にとけ込める感覚の中を浸っていた。
風が運んでくれる。この感覚は何にも代え難く素晴らしかった。
つづく
今回のクルージングは2週間の予定だ。8月1日からの予定だったが、寸前になって娘の結婚相手のご両親との顔合わせが入った。Iさんには悪いことをしてしまったが、娘の人生の大事な節目なのでそれを優先した。前妻(現妻がいるわけではないが)とも顔合わせになるが、お互いに大人でいようと言い合わせているのでたいして気まずい思いは無かった。珍しく少しお酒を飲んだ。
離婚する前からすでに私の住まいともなっている事務所で休んでから、夜中に東京を出て箱根に着いたのはもうすぐ朝になろうとしている時だった。
2日はゆっくりと起きて、箱根を出てホームポートには昼頃に到着した。
エンジン周りを点検した。防蝕用のジンクが半分ほどになっており交換時期になっている。オイルをチェックし、吸気フィルターを掃除し、燃料タンクの水抜きをした。
いつ来たのか隣の船にテンダーが付けてあった。ここに係留し始めてから一年以上経つが、今まで一度も顔を合わせたことが無かったので姿を見たら声をかけようと思った。しかし、船内で作業をしている時にテンダーのエンジンがかかる軽い音がして遠ざかっていった。後ろ姿は静かな老夫婦だった。客観的に見れば同年代であろう。
Iさんがアイスコーヒーを携えて3時頃にやって来た。点検した内容を一通り話した。ジンクをエンジンに取付けるのにシールテープが必要であったが、道具箱の中に無かったことも言うと、Iさんは隣町のホームセンターまで買いに出掛けた。
それを待って、ジンクを取付けエンジンをかけた。
かねてからの懸念だったことがあった。バッテリーの電圧が下がってエンジンがかからない場合の対処方法である。デコンプを抜いてクランクで手動するマニュアルがあるのでやってみたことがあるが、とてもではないが怪力の持ち主であってもおそらく無理な話だ。無理にやってデコンプを入れた瞬間に圧縮の反動で体を持っていかれ、眼鏡を壊し腕に痣を作ったことがある。
このままでは航海の途中でバッテリーが上がってしまったら手も挙げてしまうことになる。何かいい方法は無いものかと考えていた。そして今回、少しアイデアを持ってきていた。エンジンのスターターのスイッチを入れながらクランクでの手動をアシストするというものだ。バッテリーの電圧不足を手動で補えるのではないかと思ったのだ。
前回、船を離れる前に音楽などを聴いて普段使いのバッテリーをかなり使い、充電せずにそのまま帰っていた。そのバッテリーではおそらく電圧不足になっていてエンジンはかからない筈だ。やってみると予想通りエンジンが廻らなかったのでそれを試すいい機会となった。もう一度スイッチボタンを押した。エンジンは何の反応もないのは承知だ。次にクランクに手を掛けて回した。するとそれほど強い力を入れなくても圧縮の頂点を超えることが出来た。手動だけではその圧縮を超えることが不可能だったのだ。その瞬間、エンジンが振動してかかった。意外に簡単にかかって拍子抜けしたほどだった。
ついでに違う方法も試した。デコンプを抜いてスターターのスイッチを入れてフライフォイールに回転の惰性をつけてからデコンプを入れるというやり方だが、それでもエンジンをかけることが出来た。
その方法が無理なほどの電圧低下は無いだろう、ということでその件は解決して航海の懸念が1つ減ってくれた。
しばらく町の生活から離れるので、隣町の町営温泉へ行き、帰りに中華料理屋へ入った。私は餃子とチャーハン、Iさんは餃子と麻婆麺。チャーハンの量が多かった。
いつもはまだ寝る時間ではないが、やる事もないので早めにバースに入って寝ることにした。しかし、食べ過ぎに加えて食事の時間が遅かったので、胃にはまだたくさん残っている状態のため胃酸が上がってきて、眠れずデッキに出た。風はなくなっていたが緩やかな波は入ってきていた。ハルが揺れてマストとリギンが触れる金属音が船の寝息のように鳴っている。
シーパラダイスのアシカの太く短く連続した尻上がりの鳴き声が生暖かい夜風に乗って聞こえてくる。大げさな嗚咽のようにも聞こえる。昼間の演技の失敗を後悔しているのだろうかなどとたわいもないことを考えながら、寝静まったこんな夜中に遠いのにかなり大きく聞こえるが、近隣からは苦情が出ないのだろうかと気になった。
自分の小さい時のことを思い出していた。
私の子供の頃の悲しみは、何に悲しんでいるのか分からなかった。悲しいというよりは不安に支配されていた。水風船のようにぶよっとした得体の知れない領域が胸一杯にあった。些細な刺激でも表面の薄皮に穴が開き、中の液体がはじき出て泣いた。それはいつもつまらない刺激だった。誰かがつついたとか、誰かの何かが体に当たったとか、道を塞がれたとか、普通の子供だったら泣く程のことでもないことだった。誰かにつつかれたことが悲しいというのではなく、自分の中の不安の水風船がいつもはじける寸前だった。はじけるためにはちょっとした外力でよく、なんでもよかったのだ。何故不安だったのかという原因はなかった。ただ理由もなく不安だった。私の場合、不安は原因の前にあった。
不安は、普通の人であれば平穏な時は波も立たず静かでその存在には気が付かないものだ。しかしその水面に原因となる小石を投げ入れれば波紋が立つ。それが大きければ不安は大きく波打ち他の感情の上にまで浸水して、心は不安でいっぱいになる。普通は石を投げ入れて初めて不安を感じ取ることが出来るが、石の投入に関わらず不安は存在している。私の場合に限らず、不安は原因の前にあるのである。
その不安の不気味な深さを、わたしは普通の時も感じていた。それがぶよっとした水風船のような感触で胸の中にいつもあったのだ。
不安はもともと何にも関係性もなく存在しているということが重要である。原因があるから不安になるのではなく、不安はもともとあるものであって、それは食欲に似ている。腹が減っていない時は食欲を感じないように、不安も何もなければその存在を感じることはない。それは、必要な時に感じるのである。つまり、感じるか感じないかに関わらず不安は、誰しもが生まれつき持っているものであり変更がきかないものである。
権力者も芸術家も、その方向へ進もうとした時の発端に、不安が重要な原動力となって関与している。人間の行動は、不安に支配されている。希望も夢も欲も不安が底流となっている。情熱も激しい愛もである。全ては不安を払拭しようとする行動である。
そして、不安の払拭に完全に失敗したとき、死が訪れる。完全に失敗する直前の状態は絶望である。絶望のときでさえ、不安は希望の種となっている。絶望の時、不安を感じ取ることが出来れば、精神はまだ生きようとしている証拠であり人は生きていける。不安は、死へのブレーキとなっている。不安は、種の保存の根幹であるから、死へのブレーキとして機能するのは当然と言える。そして絶望のとき、不安を感じなければその精神は死へ向かっている。
地球上に生物として出現し、その種を守るためには不安が必要であった。または、不安を持つものが種の保存を可能とした。種の存続の必要条件として不安は存在しているのである。生物的には弱体の人類がその種を継承できているのは、不安が精神の根幹に存在しているからである。不安は、人間の中心にあって精神を構築している。苦しみだけではなく喜びも、すべての感情は不安に紐付けられている。
社会は、人の不安を解消しようとする方向へ進化する。それは空腹を感じれば食事をするのと同じで、不安があればそれを払拭しようとするのは当然のことである。しかしそれは、食欲を感じないですむ方向へ進化するのと同じではないだろうかと危惧することでもある。不安は、必要があって我々の心のうちに宿っているのである。不安は不快であると同時に生きるためには必要なものなのである。
不安がなければ快適だろうか。不安は不快だから無い方がいいと思いがちだが、不安の意味は他にあるのである。
それは、不安のない社会を想像してみると分かる。老後の不安もない、就職の不安もない、毎日の食事の不安もない、住居の不安もない、そういう社会は果たして快適だろうか。一見して幸せそうに見えるが、人々の表情が皆同じようになり、のっぺりとした印象で活性がなく誰彼の区別がつかないようになってしまう。生きているという感触が無くなるのではないだろうか。自分は何のために生きているのか。別に自分が生きている必要性はないのではないか。人はそう思うのではないだろうか。不安が無いから愛する事も無い。もしあっても性に由来するものだけになる。
その性も、不安がなければないのではないだろうか。
死期を待つ人にとっては、何も不安の無い安らかな時を過ごすことが幸せであるだろうが、安らかという感情も不安がなければ無いであろう。まだ生命に余力のある人は、不安が全くないという状況の中で何を思うだろうか。その中でまた不安に落ちて行くのである。精神は、いつも不安を求めているのだ。
結局、不安のない状況を精神は嫌うのである。不安は生きる指針として重要な役がある。人間の精神の中核をなす不安部分は、絶えず適量の刺激が必要なのである。そして不安が解消へ向かう時に精神を活性化させる。
不安になったとき、何かを行動すると不安が解消へ向かう。行動はなんでもいい。太古では生命を襲う脅威から回避したりまたは戦ったりすることであった。戦いで気分が浮き立つのは、不安が解消へ向かう時の脳のドーパミンによる精神の活性作用のためである。つまりそれが生きることの始動点なのである。不安は、種の存続のためには不可欠なものであり、また同時に精神が生きるためにも不可欠なもので、体にとってのビタミンのようなものである。言い換えれば、不安は苦しみとともに希望なのである。
滲み出る不安は、精神を液体のように浸食する。その液体は、強酸か強アルカリのようだ。そのPHのままでは精神がボロボロになる。それを中和させるのが希望とか夢なのである。私の子供の頃は、泣くことが中和作用だった。
いつも不安を抱えていた私は、だから大きな希望を持った。青年期のそれは、最愛の人に巡り会いたいという誰もが持つ希望だったが、おそらくその思いの強さは誰よりも強かったと思う。僥倖にも巡り会うことが出来たが結ばれることは無かった。その後数十年苦しむことになった。そんなに長期間であったのは依存型の幸せだったということである。その人が居ないと生きていけない、その時そう思っていた事実が依存型であったことを物語っている。その思いが誰よりも強かったというのは、単に自分の依存心が誰よりも強かったに過ぎないのだということに、最近気が付き始めた。私の中の不安は、希望を際限なく膨らませたが依存心も増大させていたのだ。小さい子供が胸一杯に不安を抱えていて、いつも誰かに依存していなければ精神を中和することができなかったのだろう。
本当に純粋に愛していたことに付いては、依存心が根底にあったとしても、その思いは地球の誰にも負けないと思っていた。実際に比べることは不可能だが、地球上の人間にこれ以上の気持はあり得ないと思えたので、私のその人を思う気持は世界一だと確信した。しかしその人の本当の心が良く分からなかった。それなのにあれほどに愛していたのはどういう訳だろうか。仮にその人が罪人であったとしても私の気持には変わりないと思った。どんな暗い過去をもっていたとしても、かえってその方が嬉しいと思った。雪女でも魔女でも構わないと思った。愛とは病的なものである。
あの時、私の心にあった依存心がもう少し小さかったら私はもっと強くなれただろう。その人が苦しみの淵に落ちていくのが目に見えていながら、僅かな拒絶の前に私のすべてが石のように動かないままだった。今手を差し伸べてもより強い拒絶を示し、戻れぬ溝に落ちてしまいそうだった。さらに、今その人に必要なのは自分ではないという概念が錨のようにあった。私はその人の幸せの邪魔をしているのかも知れない。
「もし、君の心の中に居るのが僕であるなら、小さくひと言でいい、僕の名前を呼んでくれ。そうすれば僕はどんな難局でも乗り越えられる。」その人に届くように何度何度も心の中で叫んだ。
その人の心が何処にあるのか分からぬまま10年が経ち、次第に私の心は壊れていった。自分の愛を陳腐なものにしてしまいたかった。自分には愛をいう資格はないと思ったのだ。壊れた手紙も書いた。壊れて私の外面は普通の生活を装い始めた。だが壊れても探し続けていた。そして子供も成人し、30年という時が流れていた。
それはふいにだった。その人の心の場所にふわっと降り立つことが出来たと思ったときがあった。2つの心がやっと静かに向き合うことが出来た。2人ともうつむいていた。
しかしそれは残酷な事でもあった。その人をあの地獄のような場所に置き去りにしてきたことを知らされたことでもあった。その人は普通の生活など送れる筈が無かった。どんなに苦しかった事だろうか。私の慚愧は深まるばかりだった。
子供が成人してとりあえず親としての義務を果たした後だったから良かった。もし、もっと早くにそこに辿り着いていたら私はどうなってしまっていただろうか。胸骨をへし折り胸中をかきむしり気を狂わせ廃人になったかもしれない。その人も、私の事を強く何度も何度も呼んでいた事を知ったのだ。その人は、それを言葉にして私に伝えることができなかった。私は義務を果たした後だったから良かったと言っても、その間その人はどう生きてきたのだろうか。ずっと地獄を耐えていたのではないか。少しの幸せでもあってくれただろうか。
あのとき石のように動けなくなりその人の心を救えなかった上に、更に苦しめることになった。その人のために何も出来なかった私は、代わりに永代の苦しみを背負うことになった。そしてまた、その人の本当の心を知る事になり、地獄に一人ぼっちに置き去りにしてきた事を知り、私は、何度生まれ変わってもその慚愧に襲われ苦しみから逃れられない気がした。でもそのことをその人が知ったら、その人はより苦しむのではないか。私はどうしたらいいのだろうか。どうしていいのか分からない。忘れてもいい事であるなら忘れてもいいのだろうか。
あのとき、動けないでいた私の心は、どの位経ってからだろうか空腹を感じた。そして魂が抜けて残滓のようになった体が、それでもごろっと動き始めた。それが私の生きることだった。しかし、一歩先の自分が無く、全方向は光も無く真空であった。自分が進むべき道は何処にもなかった。ただ、不安の檻に入った将来が遠い所で揺れていた。だから死への道だけは辿らなかった。
もう30年以上も昔のことである。その後は数えていない。
私は大きく息をした。対岸の灯や星の灯が少し滲んでいた。
胃も治まってきたので、船室に戻りまたクオーターバースに頭を奥にしてもぐり込んだ。眠れずに寝返りを繰り返しているうちに涼しくなってきて、いつしか眠りに入っていた。
つづく
クオーターバースは、コクピットの下になっており、コクピットの形の裏側がそのままクオーターバースの空間になっている。狭い横穴だが入ってしまえば意外と広い。閉塞感に襲われそうな所に頭から入っていくのは小動物にでもなったつもりでないとなかなか入る気になれないが、しかしこれも慣れてしまえば孤立した空間で快適である。
朝、日が昇るとコクピットに陽が当たり、その熱がクオーターバース内の温度を上げ始める。暑くて目を覚ますと8時になっていた。意外にもよく寝たようだ。バースから這い出て、スライドハッチから外に出ると容赦ない光が満ちていた。コクピットの上部にオーニングを覆っているが、横からの朝の日差しには効果なく、太陽光はコクピットを直撃して、その内側のクオーターバースの温度を押し上げ始めていた。
Iさんが起きて来たのでシリアルに豆乳を満たしたものと野菜ジュースで朝食をすませた。食後に蜂蜜をたっぷり入れたコーヒーを飲む。
今日は数日間分の買い出しをして、夜には花火見物をする予定だ。私のゲストのS氏が来る予定になっている。
S氏が長岡についた連絡が入ったのでIさんの車を借りて迎えにいくと、駅のちょっと前のかの川でも花火大会があるようで、土手に屋台が並び浴衣の人が集まり始めていた。
船で一休みしてから長浜の漁港まで15分ほど海岸沿いを3人で歩いた。数軒の屋台が出ていて夕食になるようなものを数点買い求めて、岸壁の最前線に腰を下ろして食べながら打ち上げを待った。
昨年の同じ日に、偶然にこの花火見物をした。いつものようにヨットを片付けて帰路についたのだが、漁協に人だかりがあった。何があるのだろうと眺めていて、そういえば昼間に花火の空打があったことを思い出した。花火大会がこれから始まるのだろうと思った。そこから小さな山を越えた所にある町営の温泉に入り、再度長浜に戻ってそれを見物したのだった。
長浜は小さな町だが、その花火には驚愕した。何処の花火よりも凄いと思った。花火自体は他とあまり変わらないのだが、その打上げ地点までの距離が近いのだ。遠くで眺めるしかなかったのが今までの花火の体験だったから、席に着いた時は、こんな間近で大丈夫だろうかと不安になった程だった。
火玉は、空高く上がって口が開くほどに見上げた頭上で炸裂する。視界一杯に広がる火焔の爆発に思わず首をすくめ、体を引いた。と同時にその音響が体を揺する。その迫力に圧倒された。この花火見物は我々の恒例にすべきだと思った。
そして今年の花火見物となった。
ます精霊流しが始まる。盆に会わせた花火大会であったが、なんとも形ばかりで嘘っぽい気がしてしまった。
後ろでは盆踊りが始まったが、それも嘘っぽい。全く興味がわかなかった。
花火打ち上げにカウントダウンの要請があり、それには素直に従った。花火だけは素晴らしかった。昨年と同様に迫力いっぱいの響宴で、趣向を凝らした新しい花火も沢山あった。3ヶ所から同時に扇型に広がる花火、フィナーレの空いっぱいの目眩がするような花火、どれも素晴らしかった。メッセージ付の花火のコーナーもあった。一玉ずつオーナーがいて、誕生を祝って、入学を祝って、百歳のお祝いに、冥福を祈って、といった様々なメッセージが放送されて、夜空を彩っていた。このローカルで個人参加型であるのも身近に感じられた。この花火を見れば他のは見なくてもいいという気分になる。
翌朝、簡単にシリアルで朝食をすませた。ポンツーンで水を補給してから出航したのは9時5分だった。ホームポートの付近は山に囲まれているので風は強くなく、日差しが強いのでオーニングをつけたまま出航した。
すぐ近くの山さえ靄っている。いつものワンデークルージング の時とは気分が違う。どんな二週間が待っているのだろうと思うと少し気分が浮き立つが、熱帯地域を北上している台風の進路も気になる。
湾を出るだいぶ手前で無風になる海域がある。いつもそこだけ無風であるのは何か理由があるに違いないが、山の稜線にはブランケットになるような特徴的も部分もないし、海岸線も至って普通で、明確なそれはよく分からなかった。その無風地帯を過ぎたあたりから本来の風となる。それは急に吹き始めて、我々はオーニングを慌ててしまった。この先はこの風の中をしばらく進むことになる。
我々としては少し強めだが不安感は無い程度だった。セールは自分の任務に飽きることも無いようで元気一杯だ。
大瀬崎を交わすと西海岸の波に削られた美しい海岸線が目に入ってくる。一番先端のやっと見える岬の、まだまだ先に今回の目的地がある。みっちりと航海計画を立てているわけではない。台風の影響も考えなければならない。どんな航海になるか分からないが、セールのように大きく期待を胸に膨らませた。
沖に出すとまたしばらくは無風状態になったが、次第に風が吹き始めた。はるか沖には猛烈な台風がある。なんと900hPa。とんでもない。その気圧のまま日本に近づくことはあり得ないが、その現場の海の状況を想像するとぞっとする。
すぐ近くにも1010PHノ熱帯低気圧がある。
パソコンで地球の風のデータをみるとこの地域は無風に近いが、実際は結構いい風が吹きはじめている。次第に白波が出始めたが、フルセールのまま帆走した。
ゲストは日程に余裕が無く、今日の夕刻までに東京の何処かしこに行かなければならない予定に縛られていたので、いったん土肥港に入ることにした。それを過ぎると次の港は宇久須になりその予定には完全に間に合わない。
セーリングを楽しんだあと、土肥に入ったのは12時半だった。エンジンを掛け、セールを下ろして港に入り、バウをチョン着けしてパルピットからS氏が岸壁に飛び移つると、岸壁を押し離してそのまま港を出た。
杉阪氏は、防波堤の先端まで来て手を振っていた。私も手を振り、セールを上げて別れの挨拶をした。
クローズでいい帆走だ。白波が結構出ているがフルセールのまま帆走した。
しかし次第に風が強くなりオーバーヒールして走りにくくなってきた。ハルの側面が海面に粘りついているようで、風を受けている割には艇速が出ていない。リーフをワンポイント入れセールを小さくしてオーバーヒールを解消させるとキビキビした走りになった。海面を切り込んでいく感じになる。スピードもこの方が出て安定感もいい。これからは白波が出たらクローズの時は悩まずにリーフすることにしよう、とIさんと話した。
今日の寄港地を決めぬまま松崎沖を通過した。特に急ぐこともないのでのんびりと航海を楽しみたかった。これを過ぎると岩地か妻良になる。明日は下田に入るつもりなのであまり先へ行っても明日の楽しみが少なくなる。適当なところへ入ってしまいたかった。となると岩地である。今までも何度か入って勝手が分かっている。
流していたトローリングの針に小振りの鯖が引っかかった。巻上げと同時にトローリングを片付けてセールも降ろしエンジンをかけて入港の準備を始めた。
前回入港した時は、岸壁に釣人が沢山いて接岸するのに気を使った。船を近づけていくだけでは誰も場所を譲ってくれるようなことは無い。「すみませーん」と大声を出して接岸の意思を示さないかぎり船の存在自体にも無関心である。釣人にしてみたら面倒くさいのだ。ゆったり気分で釣り糸を垂らしているのになんでここに入ってくるんだ、という気分だろう。前回は、あまり場所を占領しても悪いので船を岸壁と直角にして槍付けで係留したのだった。
そのつもりでスターンからアンカーを出す準備もして入港すると、何故だか釣人は1人もいなかった。ほっとした気分で槍付けはやめて横付けで係留した。その方が係留作業も船の乗り降りも格段に楽だった。
南風で岩地港には波は入らず、海は静かで透明だった。湾の先端に防波堤があり、船を留めたのはその防波堤のさらに先端で、数メートル先は外海だったが、船が揺れるようなことは無かった。
一休みしてから町まで散歩に出掛け、アイスとコーラを買い、途中の岸壁の熱で温まったコンクリートの上に腰を下ろして食べた。
船に戻り、Iさんが夕食の支度を始めた。先ほど捕れた鯖を煮付けたものとチャーハンが出来てきた。その間私はコクピットでアンカーロープの端末の処理をした。
日も傾きかけてきて防波堤には1人もいなくなっていたが、いつの間に来たのか短パンをはいた若い女が、1段高い防波堤の上で、外海の方に糸を垂らして釣りをしていた。片足に重心を乗せて腰をくねらせて立っている。防波堤は長いのに船の前まで来て釣りをしているのは我々に用があるのだろうか。それとも単に釣りのポイントなのだろうか。何か胸がざわざわして落ち着かなかったが、声をかけることも無く尻の形を楽しんだだけだった。「ちょっと垂れているな」「いや、あの位がちょうどいいんだよ」Iさんは「今度双眼鏡を用意しておこう」と言った。えっ、こんなに近いのに、と思った。男の会話をしばらくした。
今日はセーリングも満喫し、気分のいいクルージングだった。陽もさらに傾いてきて空が染まり猛暑が一息入れ始めていた。
若い女もいなくなり薄暗くなってきた。船揚げ場に観光客用のシャワーがあったので汗を流そうと思い、歩いてその場まで行った。観光客もいないのでシャツもズボンも脱いでパンツ一丁になってシャワーのコックをひねった。しかし水が出ない。元栓を留めているようであった。元栓を探したが田舎で問題を起こすと厄介なのでシャワーは諦め、明日朝に使うことにして船に戻った。
携帯のアプリで潮位を調べようとした時、携帯が無いのに気が付いた。シャワーのときに濡れてはまずいと思って携帯と財布は少し離れた場所に置いたのをすっかり忘れてそのまま船に戻ったのだった。それを思い出すのに少し時間がかかったのは、年のせいだろうかと思った。
その後は何事も無く、早めに就寝した。
つづく
翌朝、かなり早い時間に男が岸壁から呼ぶ声が聞こえる。Iさんが対応していた。何事かと思うと漁協の人間が係留費を取立てにきていた。こんなに早い時間なのは、出航してしまってからでは取立てできないからだろう。素直に払っていた。2000円とのことである。これって正当な請求なのだろうか。法律違反になっていないのだろうか。港は道路と同じで公共のものである筈である。漁協は、港を自分たちのものと勘違いしていないか。船を引き上げる場所にも観光客の車を有料で止めている。こんな目先の小銭を稼ぐ事をせずにもっと町の活性化に繋がるような事を図れないものだろうか。観光客もどんどん少なくなって、町自体も人口が少なくなっている。このままでは必ず限界集落になってしまう。その前に手は打てないものだろうか。津波の心配も加わった。町にとっては非常に難しい局面にある。
パンと豆乳で簡単に朝食を済ませ、昨日使い損ねたシャワーを浴び、8時半に出航した。
沖に出てみると、昨日とは打って変わって風がない。気圧配置は昨日と同じなのだが、どういうわけだろうか。仕方ないので機走で南下した。機走は単調で全く面白くないが、この単調さにも慣れてくればゆっくりと景色を楽しめるので悪くはないという気分にもなる。とくに岩地から南の西伊豆の海岸線は美しい。岬を廻るごとに少しずつ雄大になり波勝辺りは何度見ても飽きない。晴れて全景がすっかり見えてしまっている時は、見えているものだけなのでそれほど感銘しないが、雲が低くたれ込めて頂きが隠れて見えない時など、海から切立った崖がそびえてそのまま雲に消えていく様など幻想的でなお雄大で地球の太古さえ思い描ける。
いきなり式根へ行くのではなく、日程に余裕もあるので久し振りに大島へ行かないかと提案した。もう30年以上も行っていない。Iさんは「それもいいね」と言ったので、明日は伊豆七島を巡る航海になった。大島から始まって利島、新島、式根島と辿る事が出来る。少しわくわくする。
やがて石廊崎の風力発電の巨大な羽が何機も見えてきたが、せっかくの西海岸の景勝が台無しになっているようで私はその景色は好きではなかった。
石廊崎を廻っても風はなかった。
6人ほど乗ったカッターが2艇すれ違った。
しばらく進んだ時だった。前方1マイルほどだろうか、「あれは何だ!」とIさんが言う。ある筈も無い防波堤のようなものが見えてきたのだ。長さは1マイルほどだ。見た事は無いのだが津波だろうかと思った。しかし津波であれば1マイルということも無く延々としている筈である。それともごくごく小規模な地殻変動が下田沖にあったのだろうか。ネットで調べても地震の情報は無い。波である以外には考えられないが、一体何だろうと思っているうちに次第にその距離も縮まってその姿が分かるようになってきた。先頭の大きな波に始まってその奥にも幾重にも波が重なっている。浅瀬や島などで海流が乱れて波立つ海面はあるが、これほどの波高は無い。それにこの海域はそれとなるような海底地形でもない。
好奇心も手伝ってよく見えるようにマストの前まで行き、ドッグハウスの上に立った。避けるほどでもないと思えたのでそのまま速力も落とさず前進していった。
いよいよ数挺身まで近づいた時だった。かなり高いところから見ているのに1波目の谷が見えないのだ。これはただ事ではないと分かった。慌てて両方にあったステーをつかみ衝撃を吸収するために膝を少し曲げて腰を落とした。1波目がバウを押し上げた。膝に大きな力がかかり、体重を受けて手にもステーが食い込んでくる。船が高々と押し上げられて波の頂点に達するとシーソーのように今度はバウが下を向き谷に落ちていく。そのときはっきりと谷の底を見た。黒く深かった。波の高さ分だけ谷があるのは後から思えば当然の事であるが、その時は緊張した。押し上げられるとき以上にステーを持つ手に力を入れた。船は谷底へ落ちていった。落ちれば連続してまた押し上げられる。始めの数波は強烈だったが、次第に波高もゆるくなってきた。かなり長い時間だった気がする。こんな波は初めて体験した。何が原因なのだろう。後方に過ぎ去って、振り返ればあの黒く深い谷を懐に隠し持った波の集団は小さくなり、やがて何事も無かったかのように、先ほどと全く変わりない猛暑の無風状態がのったりと海面を占領しているだけとなった。
しばらく経ってから、あのカッターは無事だろうかと心配になった。
つづく
下田は大きな町である。異変らしきものは全くなかった様子だ。それにしてもあの波は不可解だった。
早く着いたので町に出た。真っ先にアイスを買った。
私はデジカメの充電器を買いたかった。忘れてきてしまったのだ。予備に欲しいとも思っていたので、どんな電池にも使えるマルチ充電器を探したが、そんな気の利いたものはいくら大きな町だといっても無かった。
Iさんは絵葉書を求めていた。暑中見舞いを出したいそうだ。私はそういうものを出さなくなってから久しい。土産物屋に入って探したが、今時そういうものは売れないのだろうか、あまり種類は無いなかで、気に入ったものをやっと見付けて購入したようだった。
遠方にある大きな電気屋まで行けば充電器があるかもしれないということだが、バスに乗ってまで行く気がしないが、写真が撮れないのは残念だし、どうしたらいいものかをバス停のベンチに座って迷っていた。Iさんは切手を買ってくると言って再度土産物屋の方へ歩いていった。
そして戻ってきて何やらにやにやしている。「やはりかなりボケてきたようだ。年だね。」と言い出した。聞くと、「切手をください」と言ったのに店員はきょとんとしているんだ。Iさんもなんだか分からない。「これに貼るやつです」と言って持っていた葉書を出したそうだ。「ああ、切手ですね」と店員が言って、「え、ぼくはなんて言いました?」と聞いたところ、「葉書を、と」。Iさんは、おそらくそのとき人懐こい満面の笑みを浮かべて「あれ、頭と口の回路が混線してしまったのかな、切手と言ったつもりなのに口が勝手に葉書と言った。年をとるとこういう事が多くなるんだよね。」おそらくそんな会話から彼独特の会話世界が始まるのだ。そばで聞きたかった。会計レジでの僅かな時間の中で、レジの女性が九州の何とか島の出身で子供が何人いて何処何処に嫁に行っていて、という会話をしてくる。私から見ると神業だ。Iさんは、どんな時でも、どんな場所でも、どんな相手でも、スムーズにかなり深いところまで会話が出来る能力を持っている。記憶力も凄い。少し見習いたいと思い、彼の人としている会話を良く聞くようにしているのだが、まねの出来る事では無いようで、私の会話力はいっこうに進歩することがない。「喋る事が無くなったら自分の事を喋ればいいんだよ」とIさんはいうのだが、私の会話はすぐに終わってしまい続かない。
若い時は少し耳に障る事もあったが、Iさんの会話術は年をとって円熟してきたようで、私は、Iさんのそういう話を聞いているだけでも面白かった。年をとるのも悪い事ばかりではないと思った。というより、年をとってからの方が人生が面白いと思うことが多かった。
充電器は諦めて船に戻った。
夕食の支度を始めようとして冷蔵庫から肉を出すと少し臭う。ラップを剥がすとその臭いは鼻をついた。出航の前日に買出ししたものだ。船の冷蔵庫は、バッテリーから電源を取っているため、オルタネーターが廻るエンジン駆動時しか電源を入れる事が出来ない。常時冷やしていないので腐敗が早いのは仕方ないが、結構高かったのですぐ捨てる気にはなれなかった。洗えば喰えるのではないかと考えた。鶏肉を出してみると表面が少しぬるっとしていた。ぬめりを丁寧に洗い落としてから湯がいた。食べてみると鶏肉以外の味が少し混じっている。経験の無い味だ。少しピリッとした感じがあるが、体に悪い事をしそうな味ではない。基本的に腐敗と発酵は、生物学的には同じである。人間が思う腐敗の全部が喰えないものでもなかろうと常々思っていたから、今回それを試してみようと思った。本当に喰えないものなら口に入れた時に体の内部から拒絶するものがある筈である。それを信じる事にして、1本を食べた。Iさんに、大丈夫そうだよ、と言って勧めると、少し怒ったような顔になった。「あのな、今までいろんな事があってもなんとか生きてきたんだ、この年になってそんなつまんない事で死にたくはないよ」
私は、死ぬほどの事でもなかろうにと思いながら、残りをそろりそろりと食べ進め、1パック全部を食べた。
もう1つ豚肉のパックもあったが、とっくにIさんが捨てていた。
「エーッ もったいない!」私の発言にIさんは呆れていた。
夕食は、鮭缶と玉ネギとキャベツの炒め物になった。
猛暑日の連続でIさんは少し疲れが出ているようだ。普段は冷房を入れた部屋で寝ているから、冷房が無いどころか温まった船内で寝るのはきついのだろう。
この先の予定を変更した方が良さそうだと思えた。しかしIさんは、意志が強く決めた事は滅多に変更しない。とにかく大島までは行こうということになり、その後はまた大島で考えよう、ということになった。
岸壁の方から囃子を練習する笛の音が聞こえてくる。もうすぐ全国的に盆の祭祀が始まるころだ。
近くのコインランドリー内に有料シャワーがあったので交代で利用した。昔はここに自分らの船の第一号を置いてあったが、その頃とは様子がだいぶ変わっていた。その頃は共同の流しがあり自由に使えた。町の中の店も変わっている。
あの囃子の中にも紛れ込んで横笛を吹いて町を練り歩いた事も今では懐かしく、その頃は仲間達も皆若かった。
係留してある場所は下田湾のさらに奥の河川の中だった。港湾法によれば河川にヨットを係留してはいけないのだが、違法の形で10艇以上のヨットが係留したまま、強制撤去もなく長年が過ぎている。
夜も更けたが町の灯で暗くなる事はなかった。しかし手元の川面には灯は届かず、黒い流れが見える。そこに流れのままに動く小さなものがあった。よく見ると蝉だった。飛ぶ力をなくしたのだろう。それでも飛ぼうとしているのか、羽の振動が水面を小さくざわつかせながらゆっくりと船の横を通り過ぎていった。いっその事、鳥が見付けて食べてくれた方が蝉も楽なのではないだろうかと思った。暗く夜も更けていくばかりだ。あのまま何処まで流されるのだろうか。
大きな辛い想い出が1つあると他の想い出も辛くなるのはどういう訳だろうか。大きな辛い想い出に引き寄せられて、他の辛い想い出が集まってくる。それどころか、どうでもいい想い出さえも辛い陣営に寝返って私を責め始める。やがてそれは深い森のように、数多の樹冠が集まって空を覆いつくし、私は青空を見ることが出来なくなった。私の胸は、辛い想い出でに満たされていた。
美しい景色を見ることは私にとって辛いことであった。美しい音楽を聴くことも辛いことであった。美しいものに気持を誘われ、始めは天に昇るような、うっとりするような、心の高揚感が訪れて幸せな気分になるのだが、いつもである、その刹那、哀しみが襲ってくる。「あの人とこの景色を見ることが出来たら、共にこの音楽を聴くことが出来たら、どんなに幸せだろう」そして、「あの人は今どうしているだろう」と思い、一瞬にして哀しみの氷の中に閉じ込められるのだ。
想像が苦しい。「社会との窓が小さい施設に入っているようなことはあるのだろうか」例えどんなに辛い状況であっても、その場にこの身を置いている方がどんなに楽だろうか。喜びも少しずつ見付けることだって出来るかもしれない。想像は苦しい。「この世にもう居ないなどということがあるのだろうか」と私の心を乱した。この世の何処かでまだ生きているに違いないと思うことで私の心はまだかろうじて崩れなくてすんでいる。会えるかもしれないという一縷の望みは叶わずとも、空間で繋がっていると思うだけでもその人を感じていられた。もし、もうこの世に居ないようなことがあったら、今生どころか、未来永劫、何度生まれ変わっても、もう糸が交わることが無いのだ。そう思うと気が狂いそうだった。
だから、年をとるのが恐かった。いずれ死ぬ時が来る。もうそんなに遠いことではない年になってきている。このまま死んでしまうということは深い孤独の世界へ入っていくようだった。
いずれ氷が溶ける日がいつか訪れてくれるのだろうか。いや、永遠に来ないであろう。何処まで流されても、この哀しみが消えることはないのだろう。私はこの哀しみを生きるしかないのだ。生きられるだろうか。生きる必要があるのだろうか。
何事も無かったかのように生きながらえて生涯を閉じるのが、その人をこれ以上傷つけないためにいいのか。それとも死して、これほど思っている気持がこの世に存在したことを示すのがいいのか。といってもそれがその人に伝わる訳でもない。それに私は自ら死ぬことは到底出来ない。生きながらえることしか出来ない。ならばどう生きればいいのだろうか。忘れることは出来ないが、もし出来るのであれば忘れてもいいのだろうか。忘れることが出来る医学治療でもあれば、それを受けて忘れてしまっていいのだろうか。もし現実にそのようなものがあったら、私は受けているだろうか。
私はおそらく受けないであろう。どんなに時間が掛かっても、必ず自分の足で歩き続けるだろう。生きる意味を、この手に掴みたい。それは、その人が生きることにも繋がる筈であるからだ。どんなに辛くても、生きる意味はきっとあるのだ。個を深めれば、その底流に公に繋がる領域が存在する。そのことは個を深めればその人に繋がることでもあった。公へと繋がる底流まで個を深めることが出来れば、それは哲学ともなり芸術ともなる。反して、公が底流に辿り着けることは無い。だから個が深まることは重要なのだ。孤立を恐れることは無い。その道がきつく寂しいものであっても、その人に繋がり、救いの道を探せれば、それだけでも幸せなことであった。あの時には探せなかった明るい道筋を見付けられるかも知れない、それだけでもいいと思った。
記憶をなくすそのような治療があるなら、その人だけでも受けてくれていた方が私としては嬉しい。そのことはあの愛が蘇るこもなくなるということになるが、30年以上も経った今となっては、その人の苦しみが無い方がいい。それに、そんな治療など受けなくてもとっくの昔に忘れ去っているのかもしれない。そう思うことは、今の私にとっては決して落胆するだけではなかった。そして私だけであっても、あのときの愛のために自分の足で歩き続けたかった。あの愛をこの世の片隅であっても刻み付けておきたかった。その場所で、その人の苦しみも私の苦しみも一緒に昇華させたいと願った。
美しい音楽でも、ベートーベンとブラームスのヴァイオリンコンチェルトは違った。いくら美しさに誘われて心を高揚させても哀しみに落ちることは無かった。美しいだけではないからだろう。自分の脆弱になった気持の深くで底支えしてくれる受け皿を感じ、それ以上落ちることは無いという覚悟のような力を得て、生きることへの足取りを取り戻してくれる。聞いた後の心は満たされ、哀しみを抱えていても生きる力が涌いてきた。
美しいだけではないこの音楽と、そしてこのヨットは、私が生きる道の良き友になってくれた。
つづく
船がゆったりと揺れているので目が覚めた。ずっと揺れているので、通過した船の引き波ではなく風波のようだ。下田港は避難港にもなっていて台風の時など大小さまざまな船が避難してくる。奥深く安全な港なのだ。その湾のさらに奥の河川にまで風波が入ってくるということは、外海にはかなり強い風が吹いているようだ。ヨットにとっては風がある方がいいが、あまり強いのも緊張を強いられて好きではない。今まで何度か危険な状況に遭遇したが、もうあんな経験はしたくないし、強風よりも昨日のような退屈な無風の方がいいというのが正直な気持だ。実は、緊張感のない機走も悪くないと最近は思っている。
今日は大島まで行こうということになっている。上空の雲は東へ流れている。
シリアルで簡単に朝食を済ませ、9時に出航した。
防波堤の外には白波が立っている。しかし予想したよりは風速はなかった。それほどの緊張感もなく帆走できた。風は西よりだった。湾内で見た上空の雲の流れとは違った方向である。風が変化する可能性が大きい。
大島へ行くにはリーチで楽であった。7ノット位は出ている。
外海に出ると雲は全くなかった。猛暑は相変わらずだ。
陸から離れていくと風は安定して少し風速も弱まってきたが、自分にとってはちょうどよかった。
次第に伊豆半島が遠ざかり、大島が少しずつ大きくなる。
大島は30年以上も前に行っただけで懐かしい。波浮港は島影の右端にある。舳先を向けていい感じで距離を縮めている。
GPSで進路を確認すると不可解な現象があった。舳先は島影の右端を狙っているのだが、GPSが示す進路は島影の中央あたりを指しているのだ。どうしたのだろうか。GPSが調子悪いようだ。
利島、新島、式根島が見える。船の移動にともなって島影の重なりが少しずつ変化していく様は見ていて飽きない。海と空と島しかない景色はスッキリとして美しい。ちょうどいい風も吹いて快適だ。どんな音楽よりも風の音の方が心地いい。
島を回り込むように進むと波浮港の入口が見えてきた。波浮港は円形のすり鉢状の自然の湾で、外海から少し奥まった位置にある。進入路を広げて船が入れるようにしてあるが、両岸に浅瀬が迫ってきていて、陸にある二点の指針がちょうど重なって見える線上が航路となっている。それを知らないで航路をはずれて侵入すると座礁する。緊張しながら侵入すると巾着袋のように湾内は大きく開けている。波浮港は火口港であった。
遠い昔は風待の港として栄えた時代もあり、その面影が今でも残っている。
少し前までは漁船が一杯あり、ヨットも沢山入ってきて、係留する場所を探すだけでも大変だった。すでに隙間もなく2重に係留する事もあったほどだった。
今は漁船もまばらであった。ヨットが3艇すでに係留している。我々は東海汽船が舫うところに係留した。東海汽船は、とくに何もなければ元町港か岡田港に入る筈で波浮港に入る事は滅多になかった。
子供達が岸壁から飛び込んで遊んでいる。とりあえず店を探してアイスを買い求めた。
平地はほとんどない。何処へ行こうにもまずは階段であった。それを少し登ったところに昔をしのぶ港屋旅館がある。無料で見学できたので入る事にした。川端康成の小説「伊豆の踊り子」の舞台になったようだ。何度も映画化された様子が展示してあった。その昔の田中絹代から始まって、美空ひばり、吉永小百合、鰐淵晴子、内藤陽子、山口百恵、らのパネルがあった。Iさんは少し興奮気味に写真に収めていた。Iさんがこういう事に興味を示すのが意外だったが、往年の名画を少しずつ見ているのだと言う。「百恵ちゃんがいいなあ」と言っていたので、今度ネットで百恵ちゃんの伊豆の踊り子のDVDを探してあげる約束をした。
さらに階段を上って島の上に出ると旧甚の丸邸がある。
伊豆大島は、伊豆半島の先端より北にあってそれほど南に位置しているわけでもないが、南国の静かな安らぎがある。島だからだろう。
散策も気が済んで船に戻って一休みした。
再度かき氷を食べに店を探し、その足で夕食をとるためにまた階段を上って、島の上のなだらかに起伏した道を、教えてもらった食堂を探しながら歩いた。
その店はあいにくと閉まっていた。他には食堂はなさそうだ。そのまま道を進み、船を留めた湾の対岸へ出る道を降りた。湾に降り切ったところにシャワーがあったので人目もないのでパンツ一丁になって汗を流した。Iさんは全裸でシャワーを浴びていた。
船に戻ってご飯を鍋で炊きレトルトカレーで夕食をすませた。
風が出てきた。
つづく
翌朝、いつものようにシリアルで簡単な朝食をすませた。Iさんはとくに不調ではないようだ。
波浮港を8時半に出た。式根島へ向かうつもりだったが、Iさんが「三宅に行こう」と固い決意を含むような口調で言った。式根ならばそれほど遠くなく、時間的にも余裕だったが、三宅となると距離で倍近い。なぜ?とは聞かなかった。Iさんは、おそらく台風を心配しているのだと思った。式根島へ行くとするとヨットが停泊できる所は ”吹之江” というは自然の入江だ。そこで台風の暴風圏に入ったら危険だと判断したのだろう。三宅島の阿古港なら安全で、そこで台風が来ても数日やり過ごすことが可能だった。まだ海が荒れていないうちに遠くても阿古港に入っていた方がいい。おそらくIさんはそう考えたのだろうと思ったので何も聞かずに、「そうしよう」と答えていた。
それは私自身がかつて経験していることでもあった。ヨットがどの港でも歓迎されていた時代だったから40年程も昔のことになる。低気圧が近づいている時に吹ノ江に投錨した。入江の中が少し広いと言ってもせいぜい5艇程しか入れない程度だが、入口が狭いため波が入って来なかった。入ると自然に囲まれて素晴らしかった。私らはそこで泳いだり貝をとったりして夏のひと時を楽しんだものだ。夜ともなると夜光虫の放つ幻想的な光に魅了された。空にはそれに負けない位の星が瞬いていた。小さい島なので歩いて何処へでも行けた。波打ち際に数カ所温泉も出ている。ヨットの世界では、ヨットの聖地として知られていた。
その入江なら大丈夫だろうと思ってその時も入ったのだ。他にヨットは無かった。対岸から用心に3本の舫をとった。
一休みしていると男が我々の船に向かって泳いできている。明らかに何か用がある雰囲気だ。船に辿り着いてその男は言った。「ここに泊まるのは危ない、俺の家に来い、舫をもっと沢山とれ、俺の家はあの坂を上がった所の右側にある。行けば分かる。」そう言うとまた引返していった。男はふんどしだった。
まさか、と思ったが島の人が言うのだから自分らが考えている以上に危険なのだろうと思い、男の言うことに従うことにした。舫を6本ほどとった。私らは岩に飛び移り男の言う方へ歩いた。
夜半に、風雨が強くなったが、危険というほどのものでもない気がした。
翌朝、男に深々と頭を下げて礼を言い、ヨットに戻った。すると舫が切れて2本がかろうじて残っているだけだった。それを見て自分の判断の甘さを知った。
船で寝ていたら、激しい揺れで眠れないどころか、舫が切れるたびに嵐の中を外に出て手だてをして、しかし何も出来ずに狼狽し、おそらく今頃は憔悴し切っているだろう。
舫がもう一本切れていたらおそらく船は岩にぶつかり破損して最悪は沈していたかもしれない。
私はそういう経験をしているのにもかかわらず、何の根拠も無く今回は大丈夫だろうと思ってしまう危ない所がある。その代わり、くじけない強さはあるつもりだが、それも当てにならない。この先にどういう状況が待っているかは、行ってみないと分からないという気持があった。何事にも僅かながらでも可能性があるかもしれないという所に気持が引き寄せられた。可能性がある所には、その可能性が僅かであっても行ってみたいと思ってしまう。
しかしそういう判断は、相手が海の場合は最も危険であることも知っている。私にとってIさんのように判断する人が居ることは心強いことであった。
それに、結局のところ私は何処でも良かったのだ。風に吹かれて海に漂っているだけで満足していた。誰かがこのまま太平洋を渡ろうと言い出しても、それでもいいと答えたかもしれない。
西寄りの風で順風だった
船は古いが保存状態もよくFRPの劣化も全く見られず、エンジンも錆が若干見られるが全く問題はなかった。帆走性能もよく、良い船に出会うことが出来たと喜んでいた。メンテナンスのしがいもあり、少しづつかけがえのない船になりつつあった。しかし船齢はまことに古い。もう30年ほどになる。何処にも全く異常がないというわけにはいかなった。エンジンの部品関係も整備した。マストに出ていた僅かな錆も落とし新しい塗料を塗った。しかし目の届かない部分の劣化は、その不具合が出てみないと分からない。
想い出に写真を撮っておこうと思った。船の上で撮る写真はどれも同じようなものになってしまうが、新しいアングルはないかと探してみたくなる。舳先(バウ)から海面に近い風下側に少し体を乗り出して、船体(ハル)が波を切る画角はもう何度も撮っていて、今までともあまり変わったものが撮れるとは思えなかったが、何か探してみたい気分になりカメラを持ってコクピットを出た。
目に見えない不具合が突然に表に出たのは、風下側のサイドデッキを伝ってバウへ向かっている時だった。
バンッという激しい音とともに瞬間的な大きな振動があった。船全体が大きなくしゃみをしたような感じだ。しかし、身を構えたが次に襲ってくるものが無い。激しい縦揺れの地震で次ぎに襲ってくる横揺れに身構えているような極度の緊張感は、何事も無く静かなままなので少したるみ始めた。漂流物にぶつかったのであれば単発で終わることは無い。船が進むに従って何度かぶつかる筈である。何事も無かったかのようにセールは風を受けて孕み、ヨットは良い走りを継続している。しかしあの振動と音は尋常ではない。重大な何かは起っている筈だ。何だったのだ。この航海では不可解なことがよく起る。今回は原因を突き止めずにやり過ごすことは出来ない。
ティラーを持っているIさんが上を仰ぐようにして「あっ、マストが折れている!」と叫んだ。
しかしセールには異常はなくちゃんと風を受けている。Iさんが見上げている上方は、私が居る風下側からは見えない。ステーに掴まりながら風上側へ移動すると、その状景が見えて来た。マストのスプレッダーから上部が大きく風下側へ湾曲していた。幸い折損までにはいたらない状態だった。見ると、マストのトップから出ているワイヤーがぶらぶらしている。そのワイヤーは舷側の金物に固定されてマストを支えているものだった。それが切れたのだった。
とにかくマストにかかる負荷を失くして折損だけは回避しなければならない。
マストの中間部でもインナーステーの支持があるのでマストの倒壊はなんとか免れているが、外側のステーが無くなったためにインナーステーにかかる応力は甚大である筈だ。すぐにでもセールによる負荷をなくさなければならない。メインシートを緩め、続いてジブシートも緩めた。
エンジンをかけるために船内に入り、キーを回すと心強い振動でエンジンがかかった。この状況でエンジンがかからなかったらどうなるのだろうかという不安がよぎった。
急いでデッキに出てハリヤードを緩めメインセールを降ろした。ジブも降ろした方が良いので、とりあえずはベアポールにした。
引き波を見るとエンジンだけでも5ノットは出ている。まだ時間はたっぷりあるから安全な港へ行くにしても何も問題はなさそうだった。
破断はワイヤーではなく舷側の金物と接続するためのターンバックルだった。ターンバックルのボルトが破断していたのだ。破断面を見ると破断したての光沢を持った部分が無い。全面が黒ずんでいて腐食していた。切れて当然の状態だった。ステンボルトの直径は10ミリで、これが切れるとは普通は考えないが、現実だ。ターンバックルの筒からは破断したボルトの頭が少しだけ出ている。これを掴んで回せれば応急処置が出来るかもしれない、と思ったがやる前から無理だと分かった。2人とも家や機械を作ることには慣れており、道具の使い方はほとんど習得していた。船内にある道具だけでは直せないことはすぐに分かった。
ターンバックルの代わりにロープをぐるぐる巻にしてしのぐとか、ステンレスの針金なら工具箱の中にあるからそれを代用するとか、その位でとりあえずは大丈夫だろうと私は思ったが、慎重なIさんにとっては、それだけでこの先の航海を続けることは考えられないことのようだ。私は「いや大丈夫だよ、このぐらい何とかなるよ」と議論しかかったがすぐにやめた。Iさんの言うように安全側の対策をとるべきだと思った。とくに三宅に行かなければならない訳でもない。台風の状況も気掛かりだ。安全な陸へ戻りしっかりと修理するべきだと思った。こういう時、いつもリスクを負いたくなる自分の性格が恐い。どこ迄が大丈夫なのかを突き詰めたいと思ってしまう。どうにもならない状況に追い込まれてから、さてどうするかと考える。だからIさんのように慎重に判断する人がいると助かる。自分の良くない方向へ行かずにすんだことにホッとした部分があったのは確かだが、正直に言うと、この局面をもっと進んでみたかった。引返すのは、もっと駄目になってからでいいと思ったのだ。しかしIさんの意見は分かっていた。「駄目になってからでは遅い!」
確かにそうなのだ。海の上では尚更である。
しかし、三宅島へどうしても行かなければならない事情があったら、Iさんの強い反対を押し切る事が出来ただろうか。私は少しの挫折感も味わっていた。
海での危機は、いつも命に直結している。その緊張感は好きではないが嫌いでもない。普段の気持に負荷を与えてくれる。それは純粋に命に向き合っている感覚で、陸では感じられるものではなく、海でしか体験できないものだ。登山家であれば山でしか体験できないものだ。
現代の陸は安全である。交通事故とかテロとか危険なことは一杯あるが、基本的に法律とか保険で人は守られている。しかし昔は、陸の生活も危険だらけだった。人々は生きる事に真剣に対峙していた。一日一日が生きる事に一生懸命だった。そして人々は助け合う仲間だった。
しかし現代は、生きる事がどういう事なのか良く分からなくなっている。お金を儲けていい暮らしをしたい。そんなのが生きる目標になっている。人々は、もはや助け合う隣人同士ではなくなって競争相手になっている。私はそんな世界に退屈し切っていた。
そんな私の心の場所になっているのが海だった。海には、まだ命に純粋に向き合う世界が残っているからだ。
さてそれでは何処の港に戻るかと話した。波浮港ならすぐに戻れるが、修理する設備はありそうもない。下田なら知人も居て修理できそうだ。
ボルトの先端を掴んで回せれば、残ったボルトが短くなってはいても使う位置をずらせれば使えると思った。しかしIさんはそんな直し方では心配そうだった。また議論してはいけないと思った。Iさんの判断にゆだねようと思った。結局ターンバックルを新しい物に交換するしかなかったが船内には予備はなかった。
結局、ホームポート迄戻って船具屋迄買いに行くことにした。
ここから一気にホームポートまで戻るには時間的な余裕は無いので、今日のところは下田に入る事にした。
「よし、そうしよう」と気持を定めてティラーを切り進路を下田に向けた。
その時だった。ことはそれだけでは終わらなかった。
大きな異変が、船体のすぐ下の広大な海原全体に潜んでいることに気がついてゾッとした。
船の引波を見るとエンジンだけでも5ノットは出ていると思われたが、しかしそれは対水速度である。異変に気がついたのはパソコンでGPSの速度を見た時だ。なんと僅か1ノットしか出ていない。対地速度は1ノットしか出ていないのだ。どういうことだ、と思った時にすべての不可解な現象の原因が分かった。
潮流だ。それもとんでもなく強い潮流だ。前日大島に向かう時、船の舳先の進路とGPSが示す進路に10度ほどの差があったが、その原因はこの強い潮流だったのだ。今日も、三宅島に向かう時の舳先とGPSが示す進路に大きな差があったのもそれが原因だったのだ。その時は横に流されていただけで進路方向の速度にはあまり影響がなかったから気がつかなかったが、いまは潮の流れに真っ向から逆行している。対水速度が5ノットとすると4ノットの潮流があるということになる。流れの速い川をさかのぼっているようなものだ。
いつもは黒潮は三宅島辺りを流れている。それがどういうわけかかなり北上しているらしい。下田に入る手前で遭った不可解な防波堤のような波も、この異常な黒潮の北上が原因かもしれない。
機走のまま数時間経った。利島と新島の重なりが少しずつだがずれているので、少しは前進しているようだ。しかし、利島沖を通過する筈が利島にどんどん近づいている。GPSの航路を見るとまたしても我々を落胆させる記録が示されている。潮流は伊豆半島の南岸を北東に流れているようだ。その流れは伊豆大島の正面にぶつかり左右に分離している。その右分流に押されて、下田への進路は大きく左にそれていた。利島に近づいているのは気のせいではなかった。潮で流されてしまう分を計算して進路を変更したが、ロスがいよいよ増すばかりだ。
これではどうしようもない。今日中に下田に着けるかどうかも怪しくなってきた。
幸い、進路を調整するとセールを右舷にはれるから切れたステーには負荷はかからない。
セールをはれる、1ノットではどうしようもない。セールを張ればもっと早くなるに違いないと思った。
「セールを上げよう」と私は言った。しかしIさんは反対した。
つづく
相変わらずの猛暑ではあるが、風も順風で空も綺麗に晴れ渡っている。海は白波もなく穏やかだ。何も気が付かなければ天国のようである。そして黒潮が少し北上しているだけの事なのであるが、我々の乗っている風まかせの小舟にとっては難局であった。漁船やモーターボートであればいつもより少しスロットルを上げるだけでいいだけだ。しかしヨットのエンジンは、基本的に港内を走行する時に必要になるだけのもので馬力はあまりない。ヨットであるからそれ以上の馬力は欲しくもなく、風と非力なエンジンだけで何処へでも行こうとするものだからこそ好きなのである。金の力で人生を切り開いて行くより、金をあまり持たない若者が夢を実現させようとして地道に歩いているようなものだ。風や波に翻弄されながらもその道中で体験できるものこそが貴重であった。強力なエンジンで簡単に三宅島へ行ってしまうより、風をたよりに日数もかけてやっとたどり着く方が得るものが多い気がした。こうして、今の現状にどう立ち向かうか、このことがとても大事であった。海の上では簡単に助けを呼ぶ事も出来ない。今は、Iさんと2人でこの状況を克服する事が貴重なのだ。
Iさんは、マストにかかる力学を話し始めた。
「マストは4本のステーで支持されている。1本が欠けても駄目だ。片側から風を受けていて3本のステーだけが効いていると思うのは間違っている。」
「いや、単純に3本のステーだけでいいんじゃないかなア。現実に風下の1本は遊んでいるし。」
「単純に風だけを考えればそうかもしれないが船はピッチングもする。その時は風下のステーも効いている。」
「ピッチングしたとしてもその時は前後のステーだけでしょ。風下のステーはなくてもいい。それに今の海の状態ではピッチングもしないし。」
「それだけじゃない、船が転覆する事だってある。そうなったらマストにはどういう力がかかるか分からない。」
私は、Iさんがそこまで懸念するとは思わなかった。転覆する事まで考えたら確かにステーが全部あっても危険なくらいだ。しかしこの状況でそこまで懸念するかどうかだ。しかしIさんの答えは分かっていたので、これ以上の議論はやめようと思った。
それは、「どういう状況が待ち構えているかどうかは分からないということだ。我々がするべき事は、いつも万全の態勢を整えておくことだ。」というものだった。
その通りだが、この状況でそこまで懸念する必要は無いと思った。言葉で勝とうとしているだけで現実的ではないと思えた。真実を探ろうとする議論ではなく、その場を言葉で勝とうとする傾向が口の立つ人の中にある。Iさんも口が立つから若干その傾向があり、私は悲しくなって、もともと言葉の持ち合わせが少ないので、この時が貴重であると思いながらも口を閉ざすしか無かった。基本的な所ではIさんを信頼しているので、そういう人とあまり議論をしたくないという思いも強かった。
しかし、ここで航海をやめるわけにはいかない。少なくとも何処かの港までは行かねばならない。3本になったステーのまま、しばらくは航海しなければならない状況は残っている。Iさんの言う通りだったら今すぐに航海を中止しなければならない。しかしどうやって。
随分時が経ってからの事だが、Iさんは台風を心配していたのかも知れないと思った。その時はすでにホームポートに戻る事にしたのでその懸念はもう無かったが、それまでは三宅島へ行く予定で先はまだ長かった。南海にある台風がその間にこの海域を襲う可能性はあった。きっとIさんの脳裏にはその事がずっとあったのだ。式根島へ行く予定だったのを急に三宅島へ行こうと固い決意を示したのもそれがあったからに違いない。
そうだった、Iさんはそういう人だった。そう思ったのは航海も終え陸に上がってから1週間程過ぎてからだった。何の前触れも無く、アッと思うのだ。私にはそういうテンポの遅い部分があって、今までも、大事な話だったのにうまく答えられていなかったことに後で気がつき、そのたびに時間を戻したくなることがしょっちゅうあった。昔からだった。
私はいつも相手の言葉が示す道筋の先にあるものを見てしまう。見ている間に話は次に進んでいて、見たものを言葉にする機会が無いのだ。一週間も経ってからでは会話にならない。そういうテンポの極端に遅いことが、多くの辛いことを招き寄せていた。言葉の先を見ていると言っても、それが正しいものであることの方が少なく、多くは私の思い込みだった。ごくごくまれに、恐いほど先を見通せることもあることはあったが、まれであれば誰にでもありうることである。
昔のあの時も多分にそうだった。見通せたり、全くの見当違いだったり、ようは会話力が不足していたのだ。もっとたくさん話していたらあんなに悲しい結果にならずに済んだのにと、自分に会話力が無かったためにその人を苦しめてしまったことを思い、思い出す度に胸が苦しくなる。
その時はしかし、と思った。マストの中間にインナーステーがあるので、マストが倒壊する事はない。インナーステーの支点までだったらセールを上げてもいいのではないかと思った。とにかく1ノットではどうしようもない。
それを提案すると、Iさんは渋々了承した。
インナーステーの支点までという上げ方は出来ないので、ツーポンまで上げるしかなかった。しかし、セールを上げても目に見える艇速の変化はなかった。しかし僅かながらでも効果はあるはずであるからその状態を維持した。
しばらくすると風の向きが変わった。セールに裏風が入り始めた。セールを風に合わせようとすると進路を落とさねばならない。GPSの航路で確認すると、今度は下田よりだいぶ右になってしまった。それでもエンジンとセールの両方を合わせた推進力の方が大きい筈であると思い、そのままの進路を維持した。しかし、それもだんだん無駄に思えてきた。今度は大島に戻ってしまいそうになったのだ。
仕方なくセールを降ろしてまた機走だけにして進路を下田の方に向けた。しかしまた、それではさっきと同じ状況に戻っただけだった。利島がどんどん近づいてくる。そっちへ行きたくないのに引き寄せられているようだ。潮流は怖い、とその時初めて思った。しかし打つ手も無く、少しづつではあるが下田方向には進んでいるので、そのままの状況を数時間過ごした。
いよいよ利島が近づいてきて、このままでは利島の港に入ってしまってもおかしくない感じになってきた。
その時「ヨシ、潮流を直角に横切ろう。」とIさんが言った。
私は何でもやって見ようと思った。
潮に直角に舳先を向けた。下田より少し右に進路を取る事になった。しかしGPSによる実際の進路は、また大島に近づいてしまうものだった。
潮を渡り切るには潮に直角に舳先を向けて進むのが一番早いが、渡り切ってから流された分を戻らなければならない。それに対して実際の進路も潮と直角にした場合は、渡り切るのに時間がかかる。どちらが早いのかは分からなかった。なるがままに進んで行くしかないと思った。舵はIさんが握っていたので私はそれにゆだね、何が来るかは分からないが、何が来たとしてもその状況に対峙する気持の用意だけをしておこうと思った。
大島がどんどん近づいてきて、大きく一回りしているような感じになっているが、とにかくこのまま進むしかない。
明るいうちに入港するのは始めから諦めているが、今日中に下田に入れるのだろうかという懸念も捨て始めた。燃料を沢山積んでおいてよかったとだけ思った。出航時に船のタンクを満タンにして、さらに20リットルの携行缶2つと、用心に10リットルの携行缶1つも積んでおいたのだ。これだけあれば機走だけでも2日位はもつだろう。エンジンに不具合がでない事を祈った。
海上には他にヨットは無かった。連日の猛暑の最中であるが、晴れ渡った空に海の青と島の緑が美しかった。海の上には我々の2人だけだった。
それほど危機的な状況でもなく、貴重な時間を生きている気がしていた。海の上での出来事はいつも未経験である。それにどう対応するかを問いながら進んでいくのは、生きているという実感があった。
決められたものに乗っかって安易に生きていくのは自分の性に合わなかった。その点、海の世界は私に合っていた。
それは自分の職業にも如実に現れていた。建築の設計において、既製品という決められたものに乗っかって安易に設計する事には全く興味を持てなかった。私にとって、建築をどう作るかということは自分がどう生きるかということだった。決められたものに乗っかって安易に安全に生きるより、拙くとも自分の生き方を生きたかった。道もない所を進んでいくことになるが、その方が生きている実感があった。建築でも既製品を使って安易に設計するより、利便性が劣ったとしてもオリジナルのものを作りたかった。その貴重さを理解してくれるクライアントに巡り会えた時は建築家冥利に尽きる思いがある。しかし仕事量も竣工後の瑕疵責任もずっと大変になるが、その方が作っている実感があった。出来合いのものの寄せ集めであれば設計はすぐに終わる。瑕疵が出てもメーカーの責任にする。同じ設計料で設計者としては非常に楽だ。問題なのは、そういう作り方で、私的にはそういう生き方で、それでいいのかということになるのだ。
しかし、拙いオリジナルをクライアントに押し付けているという批判もある。メーカーが世の中をリサーチして最も利便性の高く、かつ実験も繰り返して安全安心のもので、後々も問題が出ない、または出てもちゃんと保障してくれる既製品をクライアントに提供する事が、プロとしての責務ではないかと詰問する人もいる。
しかし私に言わせれば、1年ほどの保証期間を定めてあると言っても、それこそが無責任というものだ。一年で瑕疵が出ることは少ない。それ以降の瑕疵については知りませんということなのだから。
いつも私は、生きる事の可能性を見ていた。この世に生きている意義を感じていたいのだ。この命の可能性を見届けたいと思うので、そのためには、拙くても自分の道を探して歩くのが良かった。それは、見失ってしまった貴重なものが、それが何だったのかを探していることにも繋がっていた。私にとって建築は、生きる事そのものだった。
せっかくこの世に産まれたのだから、という次に繋がる言葉には大きく違った2つの道がある。1つは、せっかく産まれたのだから安心安全に生きて幸せに暮らしたい。やりたいことがあれば余暇でやればいい、とする道でもう1つは、せっかく産まれたのだから命の可能性を追求したい、パンのために可能性を捨てるわけにはいかない、と考える道である。
私は、一生退屈しなくても済みそうなので後者の道を選んだ。同時に、自分には中庸な道はないと感じていた。ある程度自分の道を探せて命を多少なりとも構築できているか、それとも浮浪者になっているか、どちらかしかないと覚悟めいたものを抱いていた。
しかし熟考の上その道を歩いている訳ではなさそうだった。気がついたらそういう生き方をしていた。私は、そういう生き方しか出来なかったようである。
そういう自分に対して違和感を持ち始めたことがあるのも確かだ。昔から複数人集まると話が出来なくなる。話してもうまく話せなかった。その他にも自分の中に何故だか分からない事が沢山あった。小さいときから今までを俯瞰してみると、どうも私は高機能発達障害というものに該当するのではないかと、年をとった今になってから思うのだ。そんな言葉で括られたくなかったが、最近言われ始めたその言葉は、私自身が私の中の分からない部分を解説してくれているような気がして、自分はそうなのかも知れないと思い始めたのだが、そう思うと、著名なスポーツ選手にも高名な芸術家にもそれらしき人が沢山いることに気がついたものの、やはり発達障害という言葉で括られることに関しては気分は悪かったが、自分を客観的に見れるようになったのも事実だった。テンポが極端に遅いのも、その特徴かも知れない、と思った。
著名なスポーツ選手も高名な芸術家も、おそらくそういう生き方しか出来なかったのだと思う。しかしそれは崇高な個性であると思うので、その個性を病的な名称で表現されていることに関しては、やはり不快であった。
客観的に見れるようになったおかげで、普通の人はという言い方でいいのかどうかは分からないが、既製品の中で快適に暮らせて、その方が大多数である事が理解できるし、そういう人に自分は絶対になれない疎外感さえ感じている。しかし、自分でしか探せない貴重なものがある、そう思う気持のほうが強かった。しかしそれはまた、裏を返せばそのようにしか生きられないことの諦観でもあるので、普通の人を批評する事ではなかった。いろんな人がいて、いろんな生き方がある。それでいいと思っているのだが、しかし、そこに哀しみの色がさしていることも見てしまうのも事実だった。人は表面的には認め合うものの、深い所で出会う事は無いのだろうか。
いつ陸に着くとも分からずに炎天下の中を流されている。しかしいつかは必ず着くという確信はあったので、あの時とは違ってそれほどの不安感は無かった。
あの時も大きな奔流に流されていた。流されまいとして必死だった。そして不安だった。何処へ着くのか、何処かに着けるのか、奔放に変わる流れのなかでその人を見失いそうで恐かった。もう少しで手をつなげそうなのに、指先があと1ミリですれ違っている気がしていた。あの時も暑い夏だった。
その人とは、深い所で出会った。心が震える思いだった。自分の孤独感を癒してくれた。それまで、心のこんなに深い所で出会えたと感じる人はいなかった。その人のことが自分の胸の中を占領するのにはたいして時間は必要なかった。冷たく湿気ったコンクリートの壁に囲まれた独房に、その人は明るい一条の光を差し込んでくれたような思いだった。
つづく
正確に言うと少し違っていた。それまでの私は、まだ全く未熟ではあったが自分の道を見定め始めて、自分の将来に向かって、時には時代の先端にとんがっていようという気概めいたもので生きていた。いわば、元気だった。困難を乗り越えていく自信もあった。だから自分の中に、深い所に、冷たく湿った独房に繋がれている自分を見ることは無かった。というより自分の中にそういう部分があることを知らなかった。もしその人に出会わずに生きていたら、私はどうしようもない傲慢な人間になっていた気がする。人として深遠で透明で温かく大事なものを、その人は見せてくれた。そして、とても美しい人だった。美しさの表現に”匂い立つような”という形容があるが、それを生まれて初めて感じた。その人を見るだけで、フワーと上気した気分になり異次元にワープしたような感覚に包まれた。ただ、いつも伏せ目がちだったことが気になった。目を合わせることがあってもほんの一瞬で、それは遠い灯台の閃光のような一瞬の視線で、また伏せ目がちに戻った。そして笑顔が無く、それが逆に美しさを際立たせていた。会う時も、私を見付けても手を振るようなことは一度も無く、うつむいたままやや足早にして私の所にやってきた。その人が先に来ている時も、私の来る方向に背を向けてうつむいた状態で待っていた。指先が少し触れても驚く人だった。
始めのころ、それがどんな心を現しているのか分からなかった。いつもうつむいているのは、自分の美しさを充分意識していて人に気付かれないようにしているのだろうなどと思ったこともあった。出会いは悲しい。他人からスタートすることしかできない。もっと知ろうと努力すれば、自分がいくら発達障害で会話力が無いにしても、もっとたくさん話していれば、悲しい結末を迎えなくても済んだに違いなかった。
自分の道を見定め始めていたと言っても、その時はアルバイト状態だった。経済的には全く不安定だった。その上、親のために中古の住宅も買ったばかりで経済的な余裕は無かった。結婚など遠い先のことだった。
それに反し、その人は誰もが憧れる職業に就き、私より遥かに高給をもらっていた。それに美しい人だったから私にとっては高嶺の花だった。
そういう職業に就いているぐらいだからそういう人なのだろうと思っていた。職業のことで「自分には合わない」とその人は言っていた。私は、皆が憧れる職業に就きながらなんと贅沢なことを言うのだろうと思いながら、その言葉の先にあるものを見ようとしたので沈黙になった。まだ心の深くに抱いているものを知る由も無かったが、しかしどこか私の深い所がさざ波をたてていた。呼応、または共振する心の部分が二人にあったように思う。その時は「ふーん」と言っただけだったが、その言葉は私の中に留まった。どういう事なのだろうと言葉の先にあるものを考えて、言葉で返す間が過ぎ去ってしまったが、しかし私にとって、言葉で返すよりもその人の言葉を胸の深くに受け止めていることになり、その後何かあるごとにその言葉を重ねて見る事をしてその人を知ろうとする。だから1つの言葉が時を経るごとに意味がはっきりしてくるのだ。だから時間がかかる。しかしそれでは遅い場合が多く、やはり言葉が大事なことの方が多い。もっとスムーズに会話が出来ないものかと、自分がもどかしくなることが多かった。
さらにその頃の私は、女性を相手に面白く楽しい話をすることが出来なかった。どうでもいいことを真面目に苦しく話していた。その人も「何故そんな疲れる話ししかしないの?」と聞いてきたことがあった。自分にも分からなかった。今までの経験ではもうすでに振られていて当然だった。しかしその人はまた会ってくれた。私には、たったそれだけのことだが、それだけのことがとても嬉しかった。その時に、心の深淵にまで届くような温かい光を感じたのだ。こんな深い所まで光がさすなどということがあるのだと思った。それが独房にさす一条の光を見た思いだったのだ。初めて感じる安らぎだった。そのときに初めて、自分の中の深い所に、とても寂しがっている部分があることを認知したのだった。私自身が自分の性格の何故だか分からないことの根っこが、光に当たって見えた気がした。それは潜在的に極度に緊張していた闇だった。暗い根っこの部分にその人は訪れてくれて、そっと温かい光をあててくれたのだ。その人を通して私の中の不可解な部分が氷解していくような思いだった。
その潜在的な不可解な部分、それこそは、大人になって忘れていたが、小さいときに抱えていたあのぶよっとした不安感が根っこになっていたのだった。
その温かい光で私の全細胞が安らぎ、細胞の1つ1つが陽を浴びて生き返るような喜びを感じた。その人を想う気持は日を増し月を重ねて育っていった。今でもその人は私の天使のままだ。それ以来、疲れる話し方はやめようと自分に誓った。
嬉しいことに、その人にも何かが伝わっていたようだった。私に好意を示してくれるようなこともあった。だがその人は、2号さんになりたいとか、かっこいい人に弱いとか、倍ぐらい年上の人がいいとか言っていた。悲しくもどれも自分のことではなかった。それに現実にもその人の周りにはそんな人がいくらでもいた。疲れる話しかできない私に好感を示してくれる筈などない、と思いながらも私の方はその人にどんどん魅かれていくのが恐かった。
防衛本能だろうか、その人の美しさに魅かれているだけかも知れないと思うようになった。自問した。もしその人が美しくなかったら私は同じ気持を抱いているだろうかと。自分が分からなくなった。そしてこれ以上深みにはまる前に諦めた方がいいと思った。自分はアルバイトの身だし、底辺にいる私とは生きる世界が違うと思った。
言い寄る男が無数にいるであろうことも容易に想像できた。私は何に対しても競争が出来ない人間だった。人を押しのける事が出来ない。相手を傷つけるなら自分が傷ついた方が良かった。生物的なオスの強さは全くなかったと言っていい。それが前面に出て、つまるところ自分には経済的な基盤も無く結婚など無理だし、その人を幸せにする自信を無くしたのだ。
所詮は高嶺の花だった。私は、いもしないのに「結婚しようと思っている人がいる」と別れるつもりでその人に言った。今まで経験したことの無いような底の無い寂寥の冷気の中に入っていく思いだった。
今になって思えば、それがすれ違いの初めだった。
少し日が経ってからその人は、お願いがあるんだけどと言って「本棚が欲しいの、一緒に作ってくれない?」と言った。その積極性が少しだけ意外だったが、戸惑いながらもとても嬉しかった。私があまり喋らなくてもいいようにというその人の優しさを感じて、私の決心は戸惑った。その人のその言葉の中に、いつもとは違う響きが込められていたことに、私はまだ気が付いていなかった。
すれ違いばかりだった。その人は、心に病が訪れて勤めに出られなくなっていた。「原因はあるの、でも絶対に話せない」と言って話そうとしなかった。思い当たる節が私にはあったが、それは私に好意を持ってくれていたとすればというものだったので、まさかという思いがあった。
その後も幾多のすれ違いがあった。何度も別れを意識し、何度も結ばれることを願った。止まらぬ涙を幾度も流した。
結局、奔流の中で2人は同じ深みに落ちてしまった。しかし必死に探す私の指先に触れるものは無かった。それでも近くにいる感覚はあったので探し続けた。だが必死に呼んでも返ってくる声は無かった。自分を呼ぶ声が欲しかった。心の中にいるのがこの自分であるなら、私の名前を呼んでくれと強く願った。小さくとも私の名を呼んでくれたら、私はどんなに勇気が湧くことだろう。どんなに力が溢れることだろう。しかし返ってくるものは沈黙だけだった。
月を重ね年をめくって、これ以上呼んでも何も返答も無かったら、もし再び会えるようなことがあってもその人を虐めてしまうかも知れない、という気持ちが生まれていることに気が付いてびっくりした。道の行き止まりに来た気がした。
すでにこの深みにはいないのかもしれないとも思った。私以外の人が近くにいてくれて、その人を守ってくれているという思いもあった。私は邪魔をしているのかもしれないという思いが、錨を引いているような感じであった。
良く分からなかった。近くに感じているのに遠い存在でもあった。遠い存在でありながら体温を感じるほど近くに感じるときもあった。分かるまで、その人がいるかもしれないこの深みから出るわけにはいかなかった。
しかし何年か過ぎて、気持はこの深みに落ちたまま、次第に体は日常を過ごし始めた。その時は知らぬ人と結婚した。相手のご両親に挨拶に行く途中で胸が苦しくなり、車を進める事が出来なくなった。羽田の空港が見える所だった。涙を拭ってからまた車をスタートさせた。そして子供も独立し、独り身に戻って、私の人生は一周した。子供は可愛かった。
そしてふとある情景が浮かんだ。その人は、私よりはるか深くに落ちていて声も出せなかったというものだった。私は深みの底に落ちたと思っていたが、それより深い所があった。
それが浮かんだのは、昔の大きなすれ違いがもう1つあったことに気が付いたためだった。その人が「話がしたい」と言ってレストランで待っていた。少し待たせてしまってそのレストランに行くと、その人は少し涙ぐんでいるようだった。つまらない用事で待たせてしまったことをすまなく思った。話は、「結婚を決めた人がいるの」というものだった。そのとき私は初めて人を押しのけようと思った。「そんなに早く結論を出さないでほしい、だって僕は、、、」
その言葉を私は30年以上もずっと誤解していたのだ。別れを言い出したのだと思った。
その人も私が誤解していることに気が付かなかった。数日後にまた会った別れ際の私の悲痛な表情を見て、その時に私が誤解していることに気が付いたようだったが、その場では何も解決しないまま別れた。その人は「明日電話ちょうだい」と言った。思いっきり下を向いていた。私は「大丈夫だよ、心配しなくても」と言ったが、その人は首を少し振って「ちょうだい」と言った。しかしその電話では、「悪くて、、」と言っただけで誤解であることは言ってくれなかった。否定してくれなかったことで私の中ではそういう人がすでにいることが確定してしまった。「私がいけないの、、」とも言った。「何が?」と聞いたが、少し言葉を巡らせていたようで思い切ったようにいった言葉は「本棚の寸法が違っていたの、、」というものだった。作って持って行った本棚が入れようと思っていた本が入らなかったということだった。言いたいことは他にあったのではないかと、電話を終えてから心に残った。
私が誤解してきたことに気付いたのは、なんと人生を一周してからのことだったのだ。そのことに気が付くと、その人の良く分からなかった言動のすべてが一直線に繋がって鮮明に見えてきた。その人は、始めの頃の私の「結婚しようと思っている人がいる」という言葉を受け止めていたのだった。「幸せになりたい」「1人だけなの」とも言っていた。全部私とのことだったのだ。それはずっと一筋の思いだったことが、こんなに時が経ってから痛いほど伝わってきた。そして、その人の心の形というものを初めて見た気がした。普通に探していただけではその人を見付けられる筈も無かった。
その人は、気持を私に伝えるために「結婚を決めた人がいるの」と言ったのだ。それは、「結婚しようと思っている人がいる」という私の言葉に呼応させていたのだ。私の言葉は別れようと思ってのものだったから、呼応もそのように私に伝わったのだった。
あの時、ぎりぎりの所で書いた「結婚してほしい」という私の手紙の文字を、その人はしっかりと受け止めてくれていたのだった。
記憶を辿るだけで涙が出てくる。もう30年以上も昔のことなのに。あんなに愛したその人を、とても繊細で苦しんでいる人を、私は地獄においてきてしまったことを知らされたのだ。何故30年以上も経ってからなんだ、と自分のテンポの遅さなどを超えて、自分の愚かさをのろった。もっともっと早くに気がついていればすべてが違ったのに。
私は、この慚愧の嵐が永久に収まらぬ中をどう生きていけばいいのだろうか。その人の気持に気がつけばつくほど、私の苦しみなどはその人の苦しみの比では無かった。私がいくら苦しんでも、その人の苦しみの僅かでしかない。
二人には深い所で同じような所があった。そして二人とも言葉が足りなかった。そんな二人だが、すれ違いが無ければ無二の幸せを探せたに違いない。もう少し二人が強かったら。でも弱いからこそ、それがプラスに働けば強くなれて、そのことが二人を強く結びつけることになることを二人は分かっていた。
「二倍くらい年上の人がいい」と言っていた意味もやっと分かった。私はその人を幸せにするには未熟だった。しかしその人は、私と生きる道を決めてくれていたのだ。
しかし二人は、更なるすれ違いに翻弄されてしまった。
「結婚してほしい」と文字にして送ってから、私はもし願いが叶ったらと思うと訪れるであろう幸せな気持に身を包まれた。
数日経ったら電話しようと思った。不思議と怖くなかった。電話する前に、二人の思いでの葉山へ行き、ディンギーで海に出よう。そこでどういう道を辿ることになろうと後悔しないことを自分に誓おうと思った。
いつもは二人で乗るディンギーであったが、メインとジブの2本のシートを1人で持って沖に出した。風もそこそこで気持よかった。
明日にでも電話しよう、そう思いながら岸に戻った。
船を上架して片付けを始めたときだった。脳裏にいつも映っている影が現実の視界の中にあった。後ろ姿でも分かる。その人だった。
まだ苦しくて書けない
夕暮れになると胸が苦しくなる。1日が過ぎ去って行く。人の命も終わりが来る。その人はどんな苦しみの中で生きてきたのかと思うと、私の苦しみなど取るに足りない。少し書き始めるだけで涙が溢れる。
深みに落ちてしまった数年後、私が結婚したことをそれとなく知らせてからしばらく後に、その人からも結婚した知らせが届いた。その刹那は、これで終わったと思った。しかしそう思えたのはほんの数日だけだった。違う、とだけ思った。何が違うのかは分からなかった。
ずっとその人のことを考えて生きてきた。会えずともその人と生きてきたと言っても過言ではない。その人を思わない日は無かった。仕事で精神的に過酷な状況にあったときも、その人を天に仰いで「守ってくれ」と祈った。その人は静かに見守ってくれているという不思議な気持に包まれた。手が届かない遠い所から温かい光が届いていた。
やっと会えたと言うべきだろうが、あまりも遅すぎる。だが今だから良かったのかも知れないとも思う。人生は何周かあると思っている。今はその一周が終わって区切りがついた時だった。その時にその人の本当の心に会うことが出来たのだ。僥倖と思わずにいられない。もし、周の途中でその人の気持に気がついたら、私はどうなっていたか分からない。
周の区切りのついた所で気がついたのは、その人が遠い所で、問題が起きないようにと操作しているのかも知れないなどと本気で思ってみたりした。その人ならそういう能力があってもおかしくないと思えた。その人との繋がりがまだ残っていることを感じて温かかった。しかしそれは、その人が今でも自分のことを気遣ってくれているという都合の良い自惚れの所為でもあり、冷たい自嘲がすぐ後ろに付いてきた。しかしもっと本当は、そういうことが現実にあってほしいと思っていて、その実、私の胸の中はその温かい思いと自嘲が入り乱れていた。
しかしそれもやがては、自嘲が潮のように押し上がってきて、温かい思いも冷たく呑み込まれたいった。その人は幸せに暮らしているかもしれないことを忘れているという全く愚かな所為だったからだ。それってどういうことなのだろうかと思った時、自分の真の気持が恐ろしいものであることを感じた。自分は、その人が今、幸せに暮らしていることを望んでいないのか。そんな筈は無い。その人が幸せに暮らしていると想像できたら、私の気持はもっと楽になっていただろうと思う。正直言って、そう思えない苦しみがある。
誤解していたことに気付くと、やがてその人の沈黙の理由を覆っていた霧の密度も光にあたって次第にまばらになり始め、その姿を断片的に現し始めた。私を思ってくれる気持がありながら、私を苦しめ傷つけてきたことを知って、身を引こうとしたのだった。私は馬鹿だった。
その人の幸せを願わずにいられない。自嘲の檻に捕われながらも幸せにしたいと思い、こみ上げてくるものが胸に迫って天に仰いだ。
会えなくなってからの私は、半身を失ったような気持を抱えながら建築の修行を重ね、独立して設計だけでなく施工もする会社を立ち上げて、生きてきた。その人のためにも、その人をこれ以上苦しめないためにも、私は駄目になるわけにはいかなかった。もしまた会える時があれば、ちゃんとやってきたことを示したかった。その人を守れる自分になっていることを示したかった。
しかし私が歩んだその道を、その人と結ばれたとしても共に歩むことは出来なかったのではないかと思う。平たく言えば工務店の御上さんである。
私と結ばれることを思い、その人は自分の世界を脱して世間の中で強く生きていく決意に燃えた数日間があった。私と生きていくために命を燃やした数日間だった。しかし、決めつけることは出来ないが、工務店の御上さんにはおそらくなれなかったのではないかと、その人を知った今は思うのだ。その人の「今の仕事は私に合わない」と言っていた意味が明確な輪郭を現した。
それには私に原因がある。その頃の私はまだそれほど深くその人を知っている訳ではなかった。結ばれたとしても、知らぬうちにその人の心に許容を超えた負荷を与えていた気がする。その人の頑張ろうとするその心の振幅の大きさを、おそらく私は理解することも無く、二人の間に戻れぬ溝を作ってしまっていたのではないかと思う。
しかし私にしてみれば、その人と生きていくことの方が幸せだったから生きる道は何でも良かった。その人に無理だと分かれば北の国での農業もいい、土方だっていい。しかしそうなったら、その人にとってみれば自分のせいで私が建築の道を犠牲にしているという思いに苛まれるときを迎えたことだろう。でも私は、どんな状況にあったとしても、その人を大事にしながら建築を捨てることは無かったであろうと思う。
その後の更なるすれ違いが訪れた時、その人は疲れて傷ついて苦しんで、いろんなことも見通して、燃えている命と地獄の炎の中で身を引こうと決心したのだ。その灼熱は、繊細な心の中を焼き付くしたに違いない。燃える思いを凍河に隠し、離れた所でずっと私を見守ってくれていたのかも知れないという気がして、涙が止まらなくなる。
だとしたら、私が一周を終えて、そして本当のことに気が付くまでの30年以上を見守ってくれていたというのだろうか。想像の自嘲は深みを増すばかりだ。しかし自嘲の深みにあっても、なお感じるこの温かさは何だろうか。
想い出が辛いとか温かいとか、私は気まぐれなことを言っていられるが、しかし頻繁にフラッシュバックに襲われる。圧倒的な苦しみの密度の中にいるときはそれと戦う心の活動があることで逆に心を保っていられた時期を経て、やがて少しの平静を取り戻し始めると、今度は雷光のようなフラッシュバックに襲われ始める。光に浮かび上がるその時々の状況は、ディテールまでくっきりと鮮明だった。おそらくではあるが、その人も同じなのではないかと思う。半身とは言いながらも私はなんとか生きてきた。しかしその人はどうだったかを思う度に、その人の苦しみが私の心に写し出されて息も出来なくなる。
人の命を安易に忖度するべきではないことは分かっている。しかしその人は普通に生きていくことなど出来なかったに違いないという想像を、私は断ち切ることが出来ない。その人の生きてきた道には、止まらぬ涙や、錐のような後悔や、渦巻く慚愧や、炎のような恨みが、色濃く沁み込んでいる。しかしそれらはいつかは結晶となり宝石となる日が来る。その方法は今はまだ分からないが、きっと見つけ出してみせると全天に向かって私は誓った。
この海のように、翻弄の流れの中でもなんとか状況は全部見えてきたようだ。
空の明かりは少しずつ弱くなってきた。焼き鏝ような直射光も、今日のところは終わりのようだ。
つづく