5月2日(土)
山が少し膨らんだように見える新緑の中を抜けて、いつもの海岸沿いの道路へ出る。
いつもの海がある。
今日は連休初日、晴れて爽やかだが5月の初めだというのに朝から日差しが強い。
空気はまだ肌に冷たいが、日差しはまるで夏のようだ。
船には相棒とCちゃんが、渋滞を避けるために前夜から来ているはずだ。
数日間のクルージングが今日から始まる。
ポンツーンで水を補給してから、出航したのは10時。
東よりの風だが、はるか前方のヨットのセールは全く違う風を受けている。
風向きが安定していないのは半島の山がブランケットになっているからのようだが、そうなると外海は南風だろうか。
湾を出る手前で無風となり、やがて南よりの強めの風が吹き始めた。
リーフを1ポイント入れた。
伊豆半島に沿って駿河湾を南下し、石廊崎か下田あたりまで行こうということになっている。
南風となると真上りだ。
クローズでタックを繰り返しながら行くしかない。
風はより強くなってきてリーフを2ポイントにした。
しかし不安感もなく快適な帆走だ。
半分ほどにしたジブと2ポイントのメインセールでジャストヘルムに調整し、ティラーに手を軽く添えているだけで進路は安定した。
いい船だ、と実感することがこの船にはよくある。
手入れのしがいがある。
ティラーも相棒がメンテをして動きが軽くなり、ヘルムがちゃんと手に伝わってくる。
船底塗料を塗り替えたばかりだから滑りもいい。
陸から解き放たれて、道のない海に出る。
どこへも行ける。
私はいま、子も社会人になり、一般的な就労期も遂行したので、最低限の社会的な義務から解き放たれた気分だ。
ついでに、10年の居を別にしていたのを整理して独り身になり、この海のような広がりを目の前にしている。
人の一生は忙しい。社会の中で取りあえず生きて行く手段を確保することが先決で、自分は何者だという根本的な命題に対峙する間もない。
若年の頃は、掘り下げるツールも脆弱だし、年をとるとそんな命題など忘れている。そんなものなくても生きていけるし、大半を生きてしまった当人にとっては、死ぬまでの保障の方が大事で、自分は何者か、生きるということは何なのかという命題などもはや用がないものになっている。
いま身にまとっている衣類も、今日頂いている食料も、身の回りの全ては多くの人々の働きがあってここにあり、それが社会となっている。己も社会に自分の出来ることで参加することが、つまりは生きることになる。しかしそれだけで本当に生きていることになるのか。社会がなかったら自分は何なのだ。相対するものがなかったら、絶対的な自分の存在というのはないのか。
生きている、それだけで何にも代え難く貴重なことである。しかし人は、今の場所から絶えず移動する。深い森を開拓しなければならない時もある。酸素の薄い場所を登坂しなければならない時もある。いずれ人は、生きているだけで貴重であった場所を故郷にして、そこから旅立つ時が必ず来る。
また、自然発生してしまう不平等を社会構造のひずみであると指摘しても、そのひずみを完全に是正することは不可能に違いない。社会に対して小さな窓しか開けられない人もいる。
社会の中で生きる以前以後の問題として、人間とは何か生きるとは何かにどうしても向き合わざるをえない。
青年期の自己の命と猛烈に対峙するエネルギーも朝霧のように薄れて大人になる。もし薄れなかったら特殊な人を除きおそらく社会的な義務を果たせなかったに違いない。そうなると社会の存続が危うい。社会という人格がそのことにあまり対峙させないように進化をしてきたのかもしれない。だとしたら、とりあえず義務をそこそこ果たした私は、社会から卒業証書を授与され、この先は気の済むまでいくらでも命題とかに対峙していいですよ、という自由区へ放たれたようなものかもしれない。であればまことに喜ばしい。
私にしてみれば、やっと陸の生活から解き放たれた気分なのだ。
命に純粋に向き合うときが始まった。
前に広がるのは、この海のように何も遮るものがなく自由だが自己責任の世界だ。
どう生きるか、生きるとは何か、貴重な時間が始まっている。
いい風でツーポンでも結構ヒールしながら快走しているが、なにしろ真上りでタックしながらなのでなかなか目的方向の距離が稼げないのだが、セーリング自体は快適だ。
その日は安良里に入った。
昔、でんでん2号を係留していた港だ。
懐かしい。
3人で町を散策し、食料を調達し、入れる風呂を尋ねたがどこにもなかった。
昔の銭湯や温泉会館は、観光客の減少でどこも閉館していた。
だんごやの奥さんが、店を出てだいぶ歩いたのにもかかわらず小走りに追いかけてきて看板も出していない民宿を教えてくれた、がそこも駄目だった。
それにしても、こういう人がまだ日本にいてくれることに気持が軽くなったような思いになる。しかし知らぬうちに出来ている心のかさぶたが、分厚く幾重にもなっていることにも気付かされる。その1枚がほろっと落ちて、小さく開いた穴の奥に無垢だった頃の心が少しだけ顔を見せた。しかし、その穴はみるみる塞がっていくのが分かり、自分でも悲しかった。私も誰かにそうしたいが、おそらくあまりしないであろうと思われ、風化したぱさついた哀しみが心底に粉のように落ちた。
船に戻り、具沢山のスパゲティーの夕食。
コクピットにテーブルを出して夕食を頂いたが、夕刻ともなると陽があっても外は寒い。
まだ五月だ。
5月3日
母が逝ってからはや一年。
昨年の今日、この船を買ってメンテをしている時に訃報があった。相棒は、そのことを覚えてくれていて偲んでくれた。
母は、戦後の大変な時期に子供を4人育て、狭い借家住まいで掃除婦をしながら生活するだけで精一杯だった。
それこそ、生きるとは何かなどに向き合っていたら、普通の庶民は飢え死にしかねない。
今では信じられないことだが、6畳と2畳しかない雨漏りする長屋で親子6人が暮らしていた。汲取り便所の床が落ちそうなのがいつも怖くて、私はあまり便所に行かないようになり病気になったことがあった。病名は糞詰まりだった。夜中に布団の上にむくっと上半身を起こし天井をうつろに見上げ、呼びかけても反応がなかったということである。もう60年近くも昔のことだが、まだ明けやらぬ薄暗い中を父親の背中に縛り付けられて自転車で医者まで行く道中はよく覚えており、少し寒かったが父の背中が温かだったことを思い出す。
内職しか出来ない父親は、母に尻を叩かれて外に勤め始めても、出掛けに酒をあおって職場で指を落としたりしていた。
父は再婚だった。母がそれを知ったのは長男を産んで出生届を出した時だったと聞く。先妻は初子を産む時に母子ともに助からなかったと言う。
父にしてみたら、喜びで上げる筈だった双手を、地に付けることとなった。
その頃は鬱という病名など無かったと思うが、並大抵では苦しみから這い上がることは困難だっただろう。父は、ずっと鬱状態のままだったのではないかと思うと、子供にとっても辛かったあの頃のいろいろなことのその背景が見えるような気がする。
しかし、人の一生はそんなに簡単なものであるはずはなく、それはおそらく辛いことを簡単に理解して片付けてしまおうとする迂拙な憶測に過ぎないだろう。
話はそれるが、不思議な気持になるのは、先妻の不幸が無かったら私はいなかった、ということだ。ケースはそれぞれだが、これは万人が抱く思いなのではないだろうか。その1個の命が生まれる意味は、単に種の存続以外には無いということのようだ。生きて意味を作るのか。意味を作る意味があるのか。生きるためには意味が必要なのか。意味が無いと生きられないのか。
母は小さいときから奉公に出て、目が悪かったから学校での勉強もあまりできなかったなかで、ローマ字だけは独学で習得して、顔をくっつけるようにして新聞などを読み、ローマ字を見付けると子供たちに嬉しそうに読んで聞かせていたことを思い出す。
母はとても気丈だった。いいところは沢山あるのだが自分の気に沿わないことには威圧的に押え付けようとするところがあリ、子供にしてみたらそれはかなりのストレスだった。母は怒り始めると止まらなかった。手をついて頭を床に着くほど下げるまでは怒りを止めることはなかった。母は、ものの善悪を教えているという信念があったようだが、子供の気持を考えることはなく単に自分の溜飲を下げるためだけだった気がする。私は、帰宅恐怖症になった。とくに遠足などで数日家を離れてから帰るときだった。玄関の前まで来て胸が苦しくなる。入るべきか入らざるべきかを悩むが、私には他に行く所がないことを痛切に感じ、悲しくも意を決して戸に手を掛けた。しかし不思議なことに入ってしまえばホッとする部分も確かにあったが、私が生きれる場所はここしかないことがとても悲しかった。強い気持を持たなければならないと自分に言い聞かせた。
しかし今ではそれも、隙を見ては酒を飲む父親といつも喧嘩をして夫婦仲は良くなかったうえに戦後の混乱期のことでもあり必要以上に気丈にならざるをえなかったのかと思えるようになった。母のその必要以上の気丈が母自身の心を崩壊させた一時もあった。家族全員が辛かった時期だ。姉などは「死にたい」と親戚の人にもらしていた。酷な状況の中で拘りが極度に強くなったものと思われるが、それでも誰に頼ることも出来ずに生きていたのかと思う。その後奇跡的な回復を見せてくれて平穏な生活が戻った時は、本当に嬉しかった。
死期への戻れぬ経過に入った頃、「なんであんなに怒ってばかりいたんだろう」と母自身がぼそっとつぶやいた。私は思わずその言葉に乗ってしまいそうになった。言ってしまいたいことが沢山涌き上がった。しかし言ってしまっていたら今頃後悔していたことだろう。
父との諍いを梯子で積上げるようなことがあっても、不思議なことにそれが確執になるようなことはなかったようだ。その実、父の存在を否定することは無く、同じ墓に入ることには抵抗が無かったようで、父と会うことを楽しみにしている風でもあった。
私は納骨のとき、おやじと喧嘩するなよ、とつぶやいていた。カロートの中に先妻の骨壺とも一緒に三つ納まった。
母は貧乏でも子にちゃんとした教育をさせたいと強く思っていて、”財産は何も無いがお前達の体に付けている” とよく言っていた。
その実、私を大学まで行かせてくれた。理系私立の中でも学費が一番安い大学だったが、あの貧乏の中でも入学金を溜めてくれていた。その頃は、親であれば当たり前だぐらいな気持があったことは確かだ。無かったとは言えない反目の気持が感謝の気持を散逸させていたような意識しか持っていなかったかもしれない。
生きているうちは、気丈過ぎる母のことが正直言ってあまり好きでなく、感謝の気持を表面に持つのが難しかった、がしかし根底から無かった訳ではなかった。
晩年の母の唯一の趣味は短歌を作ることだったが、逝く2年前程からは目が見えなくなった。母の歌作りは、ことばを洗い行を整えることを尽くし、それには書くという作業が必須だったのでその歌も作れなくなった。
母の一生は、ささやかな幸せが無かったわけではないだろうが、この世に生まれて幸せだったのだろうかと考えてしまうことがあり、さみしい気持になる。
そう思う自分がおそらく幸せではないのだ。
私が小さい頃に近所に芝居小屋があり、母が行くときはたいてい私を連れて行った。母は舞台上の役者に大きな声を掛けたりする人だった。チャンバラが始まると泣く私を抱きかかえてくれた。私の運動会でも大きな声援をあげていたり、PTAでも尽力して信頼を得ていた。また道端でゴミのように踞っている浮浪者がいると、私などは恐くてなるべく遠回りしようとするところ、母は具合が悪いのかと声をかけていたりしていた。先妻も含めて身近だった人の命日をよく覚えていて、祥月命日だけでなく月命日にも仏壇の前で手を合わせていた。子供たちだけでなく孫の名前や誕生日もよく覚えていて、その日が来ると必ず電話があった。私が在学中に事務所を借りて仕事らしいことを始めた時も、電車に乗って掃除に来てくれたりしていた。子供のころ、病気になったときも懸命に看病してくれていた。子供たちが小さい頃は年間のいろいろな行事も面倒がらずに一生懸命やって、そういった断片を思い返していると子を育てながら質素でも生きることに強い意志を持って充実していたのではないかと思われる。
いろいろあったとしても、私の我が子をいとおしむ気持は、根底では母が私の心に残したものと思える。
母は、貧乏の中でも4人の子供をちゃんと成人させて、人として充分に幸せだったと思える。
友達を呼ぶのにもとても恥ずかしい家だった。他の兄姉たちは、狭い檻から開放されるようにして出て行ったが、最後に残った私は親をこの借家に置いて行くわけにはいかなかった。
27歳の頃、私の収入は非常に少なかったが中古の戸建を買うことにした。世話をしてくれる人が現れたのだ。
しかし私の収入では銀行のローンを組むことが出来なかった。そこで、、、、
あっ ! さっきからずっとジブに裏風が入っていたようだ。プロパーコースからだいぶラフしている。上艇がいたらプロパー!!と叫ばれていたところだ。
進路を戻そう。
この日は下田まで行こうということになっている。
風呂がある港だからだが、明日Cちゃんが帰るので下田からだと帰り易いということでもあった。
風は変わらず南風だ。
遅くなりそうなので途中から機帆走にした。
トローリングの針に60センチほどのハマチがかかる。
コクピットで捌くのをはばかり、静かにしていたのでサイドデッキでさばこうとしたが、まな板に置いたら暴れ出した。
必死の体固め押え込みも及ばず、ハマチの必死の方が勝ったか、バタビシドタとデッキ上を数回跳ねてから場外へ逃げられ、惜しくも一本を取り損ねた。
アーッ 今夜の刺身が !!
こっちは今晩のおかずだが、やつにしてみたら命がかかっているのだから、明らかに必死さが違った。
今度は命を掛けねばと思ったが、その機会も無くその後は帰路も一匹も獲れなかった。
下田はデンデン1号を置いてあった港だ。
相棒が、懐かしい顔を見付けて話をしていた。
私はどうも人付き合いが得意ではない。いつ頃からそうなってしまったのだろうか。厭世観があるわけではないのだが気後れする。
銭湯に行く。湯がぬるかった。
裏方がざわざわしていたので熱源に不具合が出たようだ。
スーパーへ行き、食材を買い、食事は遅めになった。
4日
Cちゃんを見送ったあと、出航したのは10時。
男2人になってしまうので、それはそれでいいものだが、見送るのはさみしかった。
さみしいのは、見送られる方はその先に希望があり、見送る方はそれが思い出になるからだろうか。
風は昨日と同じようだ。石廊崎をかわせば追手になるが、それまではのぼりだ。
下田湾を出て機走する。
前方上空に幅は狭いが南北に長い雨雲がある。
雨雲の下に入ると、雨はそれほど強くなかった。
雨は、海原に星の数ほどの小さな波紋を作り、
海原は、上空の雲を乱反射して白っぽくなり、さざ波の陰影が消えて全体がのっぺりと滑らかになる。
周りの多くの事象が消えて単一な世界となり、静かになった時空が悠久をおもわせる。
そこに汪洋たる太古を感じて、それが美しいと思うのは、いったい何が私の何に触れているのだろう。
さて石廊崎を廻ったぞ、となっても風は追手にならないし、風そのものが無い。
そのまま機走状態が続く。
風がないのは、サーファーにとって波が無いのと同じだ。
サーフボードにエンジンが付いていてもあまり面白くない。
今日は何処まで帰ろうかと考えても、特に寄りたい港というのもない。
長浜までの間には10ほどの港があるが、いい風呂とか、美味い料理屋とか、綺麗な町とか、ひかれるようなものが何もない。知らないだけなのか。
イタリアのような海岸沿いの美しい町というのが、海洋国家であるはずの日本に無いのはどういうわけか。
一気に帰ってみるか、ということになった。
夕刻になり航海灯を付け、大瀬崎を廻ったのは6時だった。
下田から8時間で来たことになる。
大瀬崎から長浜までは1時間位だ。
あとちょっとの所で暗くなり、ライトを付けての入港となった。
これはこれでいい経験になった。
係船後、即銭湯へ向かう。
熱い湯に入り直しだ。
この日の夕食は、相棒作の玄米のピラフだった。
5日は、図らずもメンテナンスの日となった。
機走しているよりメンテのほうが楽しい。
早い時間に帰っても渋滞に飲込まれるだけなので、相棒の提案で井田という小さな村へ車で行ってみることにした。
大瀬崎と戸田の間にあり、海から見ると防波堤も無い小さな村である。湾内にあるわけでもなく、外海にいきなり面してその村はあった。頂まで一気に迫り上った山々の間の、すり鉢状に開けた窪みの底に人家が貝殻が落ちているようにしてあった。
驚くのは、その貴重な平地であるにもかかわらず、村全体の半分以上の面積を占めて田圃を抱えており、海岸沿いの村なのであるが農村であるようなのだ。
棚田は日本全国によく見られる光景だが、井田は貴重な平地を占めて田が広がっているのである。
この村に付いては、長岡の銭湯の湯船の壁に掲げられている富士の絵ならぬ大きな電光写真の一枚に井田の風景があったのを見てから気になっていた。
その写真では、稲を刈り込んで制作したのか田圃の中央に大きく井田という文字が浮かんでいた。
余計なことをしているなあと思いながらも、相棒といつか行ってみようと話していた。
村に下りる道をしばらく辿って人家があるエリアに入ると、その道には平滑な御影石が敷き込んであった。
海に繋がるその道を少し歩いていると、普段あまり感じたことのない空気感がひそんでいることに気付く。
ゴミひとつなく綺麗に敷き込まれた御影石のためだろうか、と思うがそれだけではないもっと深い所から漂ってくるもののように感じた。写真で見たときのポップな感じは僅微も無い。
町並みが整っているとか、特別に何かを施しているものがある訳ではなく、町並みとしては普段着のような感じなのだが、落ち着いた雰囲気がある。
多くを知っているわけではないが、関東近辺の海辺の場所でこういった空気感を経験したことが無い。
その空気感を静謐と言ってもおかしくない。
ふと100年ほどの昔を想像してみた。
今のような舗装された陸路など当然無い。
隣村までは山を越えないと行けないし自動車なども普及していない。海路を使うにも手漕ぎの小さな船で静かなときだけであっただろう。
おそらく隣村との交流もあまりなかったに違いない。
この地に人が住み始めて以来、その歴史は静寂が占めていたように思われた。
静寂は、この地に長い間留まっているうちに質量を持ち始めたかのように思う。それは生物の営みのすべての上に覆い被さって、ざわめきを鎮めている。
村全体に静寂のエネルギーが満ちている、そんな感じなのだ。
漁村のような猥雑さが微塵も無く、まさしく農村の静かさだ。
海辺の歩道の先に、海との間を細長い松林が隔た間近に池があった。
波や風雨の時を刻んだゴロタ石の浜を背にし、松林を結界にしているかのように、永遠の沈黙を決めたような水面である。
池の表面に魚の背が盛り上がるのを見て少しびっくりした。沈黙の主がギョロッと目を開けたような感じだが、また静かになり波紋も残さなかった。
池を周回する歩道を進むと、足元近くの地表から今まで聞いたことが無いかすかな連続した鳴き声が聞こえてくる。姿勢を低くして探すと鳴き声は消えた。
池にもゴミひとつなかった。
しかし、そういうことばかりではなかった。
道の突当りの海に出た所に人がいてダイビングショップがあった。そこだけが異次元のようで、その周りの空間が透明の幕に覆われて、風船のように膨張しているように感じた。
しかしそこから発せられるざわめきも、静寂のエレルギーに鎮められて風船より外には拡散しないようだった。
池を守り、田圃を守り、この村の人々は一度たりともそれを潰して人家を建てようとしたことなど無いのではないか。
静かだがさみしさを感じないのは、それらを守りながら永々と慎ましく生きるしかなかった人々の、しかしその中に幸せを感じるからだろうか。
農村の静かさは、人の静かさかもしれない。
ちょっと前までは、電話も無い、ラジオも無い。そして美しい自然の中で慎ましくも満たされて生きて来た。
久しく忘れていたその原始的だが根源的な幸福感が、歩きながら胸の中に広がっていた。
幸福感の中で見る景色は、すこししっとりとしている。 涙かも知れない。
乾燥気味だった心に寄り添ってくれる優しい潤いを感じていた。
小さな白い花を沢山つけた蜜柑の木が、周りに強く甘い香りを放っていた。
所々で同じ甘い香りに包まれながら、苗を植えたばかりの田圃の脇道を歩いた。
少し足を伸ばして戸田へ行った。
何処かで夕食をとりたかったのだ。
もう暗くなっていた町の一角に、まだ灯がともっている店があった。
相棒は鯵フライ定食、私は海鮮丼。
鯵フライを1枚もらい、ハマチを一片あげた。
ちょっと物々交換の量バランスが悪いが、相棒は文句らしいことを言わない人だった。
美味しかった。
いいクルージングだった。